第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)とは? ワカタケルとの関係、古墳について

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日本古代史において、神話の時代から確かな歴史の時代へと橋渡しをする象徴的な存在が、第21代雄略天皇です。記紀(古事記・日本書紀)における苛烈なエピソードや、考古学的な発見によって証明される広大な支配権など、多面的な魅力を持つこの大王について、専門的な視点から解説いたします。

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雄略天皇の人物像と時代背景

雄略天皇は5世紀後半に在位したとされる大王であり、その統治スタイルは後の天皇制の礎を築いたとも評されます。5世紀後半は、日本の時代で分けると、古墳時代の中期から後期にあたります。まさに、巨大な前方後円墳が多くつくられ、豪族間の権力争いも激しかった時代です。

雄略天皇は、別名「大泊瀬幼武尊(おおはつせのわかたけるのみこと)」と称され、その性格は非常に果敢であると同時に、時には冷酷とも言えるほどの厳格さを持っていました。

日本書紀』では、自らの即位を確実にするために政敵を次々と排除した姿から「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」という異名で記される一方、国政を整え、強力な王権を確立した有能な統治者としての側面も強調されています。この時代はヤマト王権が地方の豪族を従え、中央集権化を推し進めていた転換期にあたります。

雄略天皇の統治において特筆すべき点は、渡来人を単なる技術者として受け入れるだけでなく、「部(べ)」と呼ばれる職業部族へと再編したことです。これにより、特定の技術を持つ集団が王権の直轄下に置かれ、国家運営に必要な物資やサービスを安定して供給する体制が整いました。

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銘文に刻まれた「ワカタケル」との同一性

雄略天皇の歴史的な実在性を裏付ける最大の証拠が、各地で出土した鉄剣や鉄刀に刻まれた銘文です。

特に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」と、熊本県和水町の江田船山古墳から出土した「銀錯銘大刀」には、ともに「ワカタケル(獲加多支鹵)」の名が刻まれています。

以下の表は、これら二つの重要な出土資料を比較したものです。

出土場所 資料名 刻まれた名称 意義
埼玉県 稲荷山古墳 金錯銘鉄剣 獲加多支鹵大王 関東地方までヤマト王権の支配が及んでいたことを示す。
熊本県 江田船山古墳 銀錯銘大刀 獲加多支鹵大王 九州地方まで大王の権威が浸透していたことを証明する。

これらの発見により、神話上の人物と思われていたワカタケル大王が、関東から九州に至る広範囲を支配していた実在の王である雄略天皇であることが確実視されるようになりました。これは日本古代史の研究において、考古学と文献史学が合致した極めて稀で重要な事例です。

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東アジアにおける国際外交と「倭の五王」

雄略天皇は国内の統一だけでなく、大陸との外交にも積極的に乗り出していました。中国の歴史書である『宋書』倭国伝には、「倭の五王」と呼ばれる五人の大王が南朝の宋に使いを送った記録が残されています。この中の最後の一人である「武」という王が、雄略天皇に比定されています。

昇明2年(478年)に「武」が宋の皇帝に送った上表文には、先祖代々が東は毛人を征し、西は衆夷を服させ、海を渡って北の平らげたという輝かしい征服の歴史が綴られています。この記録からも、雄略天皇が強力な軍事力を背景に、東アジアの国際社会の中で確固たる地位を築こうとしていた姿勢が読み取れます。

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雄略天皇の陵墓と巨大古墳の意義

雄略天皇の陵墓として宮内庁が治定しているのは、大阪府羽曳野市にある「丹比高鷲原陵(たじひの高鷲原のりょう)」です。一般的には「丹外(たんげ)山古墳」や「島泉丸山古墳」を含む前方後円墳の形式を指します。

5世紀後半という時期は、古墳の規模が最大級を誇った時代から、徐々にその形態や祭祀のあり方が変化していく過程にあります。雄略天皇の時代には、巨大な前方後円墳を築くことで自らの権威を誇示する手法が維持されつつも、その内部構造や副葬品には大陸からの新しい文化や技術の影響が色濃く反映されるようになりました。

特にこの時代の古墳からは、優れた金工技術を用いた馬具や武具が多く出土しており、雄略天皇を支えた渡来系技術集団の活躍を物語っています。古墳は単なる墓ではなく、当時の最高技術を結集した政治的モニュメントとしての役割を果たしていました。

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神話と伝承にみる強大な王権の姿

『古事記』や『日本書紀』には、雄略天皇にまつわる数多くの神話的なエピソードが残されています。その中でも有名なのが、葛城山で一言主神(ひとことぬしのかみ)と出会う物語です。

天皇が葛城山へ狩りに出かけた際、自分と全く同じ姿、同じ装束をした一行が現れました。それは一言主神でしたが、天皇は恐れることなく、神と対等に言葉を交わし、共に狩りを楽しんだと伝えられています。これは、本来は恐れるべき対象である神をも従えるほど、雄略天皇の王権が強大であったことを象徴する説話です。

また、万葉集の冒頭を飾る「籠もよ み籠持ち……」で始まる歌は、雄略天皇が求婚の際に詠んだものとされています。

籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ちこの丘に菜摘ます児家聞かな名告らさねそらみつ大和の国はおしなべてわれこそ居れしきなべてわれこそませわれこそは告らめ家をも名をも

現代語訳

籠(かご)よ、美しい籠を持ち、掘串(ふくし)よ、美しい掘串を手に、この丘に菜を摘む娘よ。あなたはどこの家の娘か。名は何という。そらみつ大和の国は、すべてわたしが従えているのだ。すべてわたしが支配しているのだ。わたしこそ明かそう。家がらも、わが名も。

 

力強い支配者であると同時に、風雅を解する文化的な王としての側面も、後世に語り継がれる雄略天皇の重要な要素となっています。

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