神功皇后とは?応神天皇の母の系図、三韓征伐、卑弥呼説の矛盾

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神功皇后は、日本の古代史を語るうえで必ず名前が挙がる人物です。応神天皇の母であり、朝鮮半島に出兵したとされる「三韓征伐」の主役としても知られています。一方で、その実像は神話と歴史の境界にあり、卑弥呼と同一人物ではないかという説が語られることもあります。本記事では、神功皇后がどのように記録されているのかを整理し、系図、三韓征伐の史料的扱い、そして卑弥呼説が抱える矛盾点について、専門的にも無理のない形で解説します。

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神功皇后とは?

神功皇后は、第14代とされる仲哀天皇の皇后として『古事記』および『日本書紀』に登場する人物です。

第15代とされる応神天皇の母にあたります。神功皇后は、西暦で言うと200年~300年頃、日本の時代で言うと古墳時代の人物です。

『日本書紀』では「神功皇后紀」が独立して設けられており、天皇ではなく皇后ではありますが、天皇に近い扱いでエピソードが残されています。神功皇后は「じんこうこうごう」と読まれたりすることがありますが、正しい読み方は「じんぐうこうごう」です。

ただし、神功皇后は天皇ではなく、あくまで「皇后」であり、皇后でありながら特別な位置づけをされた存在です。この点は学術的にも重要で、神話的性格と政治的意図が強く反映されていると考えられています。

神功皇后は、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)とも呼ばれます。

女帝として特別な存在感があり、明治時代に政府が日本で初めて発行した紙幣には神功皇后とされる肖像画が描かれ「神功皇后札」と呼ばれました。神功皇后は切手の肖像画にも登場しています。

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応神天皇との関係と系図

神功皇后は、第14代とされる仲哀天皇の皇后であり、その子が第15代とされる応神天皇です。

『日本書紀』では、仲哀天皇が九州で崩御した後、神功皇后が摂政として政務を行い、その後に応神天皇を出産したと記されています。

人物 関係
仲哀天皇
神功皇后 皇后・摂政
応神天皇

この構図は、王権の正統性を母系によって補強する意味合いを持っていると考えられています。

また、神功皇后は、第9代 開化天皇の曽孫、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の子ともされています。

応神天皇は後に八幡神として信仰される存在であり、その母である神功皇后の位置づけも、宗教的・政治的に重要でした。

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三韓征伐とは何か

神功皇后を語るうえで欠かせないのが「三韓征伐」です。『日本書紀』では、神功皇后が神託を受け、朝鮮半島の新羅・百済・高句麗に出兵し、服属させたと記されています。

しかし、この記述はそのまま史実として受け取られてはいません。考古学的・文献学的には、日本が3世紀に朝鮮半島を軍事的に征服したとする証拠は確認されていません。現在では、軍事遠征というよりも、外交関係や交易、あるいは後世の誇張が物語化されたものと考えられています。

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三韓征伐の背景にある政治的意図

三韓征伐の記事は、単なる武勇伝ではなく、8世紀初頭に『日本書紀』が編纂された当時の国際意識を反映しているとされます。唐・新羅との関係を意識し、日本の王権が古くから朝鮮半島と関係を持っていたことを示すための叙述と見る研究者も多くいます。

つまり、神功皇后は実在の人物像というより、「古代日本が国際的に自立した国家であった」という主張を担う象徴的存在でもあったのです。

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神功皇后と卑弥呼同一視説

神功皇后については、中国史書『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼と同一人物ではないかという説が、近代以降たびたび唱えられてきました。女性の統治者である点や、神託による政治という共通点がその根拠とされます。

しかし、この説には大きな矛盾があります。卑弥呼の没年は3世紀中頃とされる一方、神功皇后は応神天皇の母であり、系譜上4世紀以降に位置づけられます。年代が大きくずれており、両者を同一視することは史料上困難です。

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卑弥呼説が抱える大きな矛盾

卑弥呼同一視説が生まれた背景には、「日本最古の女王」という存在を一元化したい近代史学の志向がありました。しかし現在の研究では、卑弥呼は中国史料に基づく倭国の王であり、神功皇后は日本側史料に描かれた王権神話の一部と整理されるのが一般的です。異なる史料に属しており、役割や時代背景も異なります。この点を無視した同一視は、学術的には支持されていません。

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神話と歴史のあいだの神功皇后

神功皇后は、完全な架空人物とも、単純な実在人物とも断定できません。複数の女性首長の記憶や、王権を支えた母系的要素が統合され、物語化された存在と見るのが現在の穏当な理解です。

その意味で神功皇后は、日本古代史における「神話と歴史の接点」を象徴する存在だといえるでしょう。

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神功皇后を祀る神社

山口県下関市や美祢市などには、「神功皇后神社(じんぐうこうごうじんじゃ・じんぐうこうごうしゃ)」というストレートな名前の神社もあります。山口県の神社庁にも掲載されている神社です。ただし、神功皇后神社の由来や由緒について調べていくと、御祭神としては神功皇后神は祀られておらず、神功皇后が三韓出兵のときに、この山口県の地に兵を集めて、拠点を作ったという伝承に由来するとのことです。

応神天皇(誉田別命/誉田別尊・ほんだわけのみこと)を祀る「八幡宮」では、応神天皇の母である神功皇后、父である仲哀天皇もお祀りしている神社も多くあります。

まとめ

神功皇后は応神天皇の母として王権の正統性を支え、三韓征伐の物語を通じて古代日本の国際的立場を示す象徴的存在です。一方で、卑弥呼と同一視する説には年代や史料の面で大きな矛盾があります。神功皇后は、史実と神話が重なり合う中で形成された、日本古代史特有の人物像として理解することが重要です。

 

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