
日本各地に点在する古墳は、単なる「昔のお墓」ではありません。そこには当時の社会構造、権力の在り方、死生観、そして国のかたちが色濃く反映されています。古墳はいつ、誰のために、どのような思想のもとで造られたのでしょうか。
この記事では、古墳の基本的な定義から形の種類、築造方法、そして古墳が持つ意味について、歴史的背景と具体例を交えながら解説します。
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古墳とは何か
古墳とは、主に3世紀中頃から7世紀頃にかけて造られた、支配層の墓を指します。この時代は「古墳時代」と呼ばれ、ヤマト王権が成立・拡大していく過程と重なります。
古墳は単に死者を埋葬するための施設ではなく、その人物の権威や支配力を視覚的に示す記念碑的存在でした。巨大な古墳は、それを築くために動員できた人員や資源の多さを示し、被葬者の政治的地位を強く印象づける役割を果たしていました。
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古墳と神道には関連性はある?
古墳と神道のあいだには、直接的に「神道」という体系が存在していたと断定できる関係はありませんが、後の神道につながる信仰や思想の源流という点では深い関連性があると考えられています。
古墳が築かれた古墳時代は、まだ神道という言葉や教義が成立する以前の時代です。しかし当時の人々は、亡くなった首長や王を祖霊として祀り、その霊が共同体を守る存在になると信じていました。この祖霊信仰は、後の神道における「神(かみ)」の観念と連続性を持っています。
古墳は単なる墓ではなく、被葬者の霊を鎮め、祀るための聖なる場でした。古墳の上や周囲に設けられた祭祀空間や埴輪の配置は、死者と生者を結ぶ儀礼の場として機能していたと考えられます。これは、後の神社における「神を迎え、祀る場」という構造と共通する要素です。
また、『古事記』『日本書紀』では、天皇や有力者が死後に神格化される例が多く見られます。こうした思想の背景には、古墳時代から続く祖霊祭祀の伝統があり、神道が形成される際の重要な基盤となりました。
このように、古墳と神道は制度的には別のものですが、祖霊信仰や霊を祀る空間意識という点で連続しており、古墳は神道的世界観の源流を理解するうえで欠かせない存在だといえるでしょう。
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古墳が造られた時代背景
古墳が造られ始めた3世紀後半は、弥生時代から古墳時代への移行期にあたります。この時期、地域ごとに存在していた首長層が連携・競合しながら、次第にヤマト王権を中心とする政治秩序が形成されていきました。
巨大古墳の出現は、単独の集落や小国ではなく、広域的な政治連合が成立していたことを示しています。古墳は、そうした政治的統合の象徴でもありました。
古墳時代の頃ではなく後世になってあえて古墳を作り祀った例
古墳時代が終わった後の時代にも、あえて古墳を築いたり、古墳の形を意識して祀った例が確認されています。ただし、古墳時代と同じ意味合いではありません。
代表的なのは7世紀の「八角墳」や「上円下方墳」です。これらは古墳時代末から飛鳥時代にかけて築かれ、天皇や皇族級の墓に限って造られました。すでに律令国家形成期に入っていたにもかかわらず、古墳的な形を意図的に採用した点に特徴があります。これは、古い王権の伝統と新しい国家秩序を結びつける象徴的行為と考えられています。
また中世以降には、新たに巨大な古墳を築くことはなくなりますが、既存の古墳を「神の坐す山」や「霊域」として祀り直す例が各地に見られます。古墳上に神社が建てられたり、塚として信仰対象になったケースがそれです。
このように、後世における古墳の築造や再解釈は、墓としてではなく、祖霊や王権の記憶を象徴する宗教的・歴史的装置として行われたものだと整理できます。
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古墳の形の種類
古墳といえば前方後円墳や円墳が有名で印象が強いと思いますが、古墳の形は一様ではなく、時代や被葬者の地位、地域性によって多様な形式が見られます。これらの形は単なる造形上の違いではなく、権威表現や葬送観念の変化を反映したものと考えられています。
| 古墳の形 | 読み | 特徴と意味 | 主な時代 |
|---|---|---|---|
| 前方後円墳 | ぜんぽうこうえんふん | 方形部と円形部を組み合わせた日本独自の形式。ヤマト王権中枢と強く結びつく | 3〜6世紀 |
| 双方中円墳 | そうほうちゅうえんふん | 両端が方形で中央が円形。前方後円墳の変形と考えられる | 古墳前期 |
| 双方中方墳 | そうほうちゅうほうふん | 全体が方形要素で構成される特殊形態。例は少ない | 古墳前期 |
| 前方後方墳 | ぜんぽうこうほうふん | 前方部・後方部ともに方形。前方後円墳以前の古い形式とされる | 3〜4世紀 |
| 円墳 | えんぷん | 円形で規模は比較的小さい。地方豪族の墓として広く分布 | 全時期 |
| 方墳 | ほうふん | 四角形の墳丘。後期になるほど増加し、律令制への移行を反映 | 古墳後期 |
| 双円墳 | そうえんふん | 二つの円墳が連結した形。家族墓・系譜墓の可能性が指摘される | 古墳中期 |
| 上円下方墳 | じょうえんかほうふん | 下段が方形、上段が円形。7世紀に現れ、身分秩序の象徴とされる | 古墳終末期 |
| 八角墳 | はっかくふん | 八角形の墳丘。天皇・皇族級に限定され、特別な権威を示す | 7世紀 |
| ホタテ貝形古墳 | ほたてがいがたこふん | 前方後円墳の前方部が短縮された形。地方有力首長の墓とされる | 古墳中期 |
前方後円墳は特に権威性が高く、ヤマト王権と深く結びついています。一方、円墳や方墳は地方首長層の墓として多く造られました。
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古墳はどのように作られたのか
古墳の築造は、まず地形の選定から始まります。河川近くの微高地や見晴らしのよい場所が選ばれることが多く、周囲からよく見えることが重視されました。
次に土を盛り上げて墳丘を形成し、表面には葺石と呼ばれる石を敷き詰めます。これにより、雨による浸食を防ぐと同時に、人工的な構造物であることを強調しました。周囲には濠が掘られ、水をたたえる場合もありました。
内部には木棺や石棺が納められ、時代が下るにつれて横穴式石室が普及していきます。
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埴輪と副葬品の意味
古墳の周囲には埴輪が配置されました。初期の埴輪は円筒形でしたが、やがて人物・家・武具・動物などをかたどった形象埴輪が登場します。
埴輪は、墳丘を区画する役割に加え、被葬者の世界を再現する象徴的存在と考えられています。また、副葬品として武器や装身具、鏡などが納められ、被葬者の権力や役割を示しました。
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古墳の具体例
日本最大級の古墳として知られるのが、大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳です。全長約486メートルに及ぶ前方後円墳で、5世紀頃の築造と推定されています。
この規模は、当時のヤマト王権が極めて強大な動員力を持っていたことを示しており、古墳が政治的モニュメントであったことを端的に物語っています。
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古墳は何を意味しているのか
古墳は、死者のための施設であると同時に、生きている人々のための装置でもありました。被葬者の威信を示し、後継者の正統性を支え、地域社会を統合する象徴として機能していたのです。
また、古墳の築造や埋葬儀礼には、祖霊信仰や死後も続く支配という観念が背景にあったと考えられています。
古墳と地域開発、権威の象徴だけではない側面
古墳は豪族や王の権威を視覚的に示す巨大墓として理解されてきましたが、近年ではそれに加えて、地域開発との関係に注目する見方も提示されています。特に、古墳築造に用いられた膨大な土量が、単なる象徴ではなく、その地域で行われた治水や土地開発の成果を反映している可能性が指摘されています。
古墳時代には、河川の氾濫を抑えるための堤防整備や湿地の開拓、農地造成が各地で進められていました。こうした土木事業によって生じた掘削土や盛土が、古墳築造に転用されたと考える研究者もいます。その場合、古墳の規模は、単に動員力の大きさを示すだけでなく、被葬者がどれほど地域の安定と生産力向上に貢献したかを示す「成果の可視化」としての意味を持つことになります。
また、治水や土地開発は地域共同体の協力を必要とする事業であり、それを統率できる首長の存在は社会的正統性の根拠となりました。巨大古墳は、そうした実績を背景に築かれた記念碑的存在であった可能性も否定できません。
このように、古墳は権威誇示の装置であると同時に、地域社会の発展と密接に結びついた存在であったと捉える視点は、古墳の意味をより立体的に理解するうえで重要だといえるでしょう。
古墳時代の終焉と変化
7世紀に入ると、巨大古墳の築造は次第に行われなくなります。律令国家の成立により、権力の正統性が墓の大きさではなく、制度や法によって示されるようになったためです。
この変化は、日本社会が首長連合体から国家へと移行したことを示しています。
まとめ
古墳とは、古墳時代の支配層が築いた墓であり、政治・社会・信仰を映し出す総合的な文化遺産です。形や規模、築造方法には明確な意味があり、古墳は当時の日本がどのような社会であったかを知る重要な手がかりとなっています。







