靖国神社の参拝はなぜ問題になる?戦争より古い歴史からわかりやすく解説

広告

靖国神社といえば、「A級戦犯が祀られている」「首相が参拝すると中国や韓国が反発する」というニュースで耳にしたことがある方は多いでしょう。しかし、靖国神社がそもそもどのような目的で作られ、なぜ戦犯と呼ばれた人々が祀られることになったのかを、歴史の順番でていねいに説明した記事は意外と少ないものです。

この記事では、靖国神社の創建が戦争よりもずっと前の幕末にさかのぼる事実から始め、他の神社にはない特徴、A級戦犯合祀の経緯、そして参拝がなぜ問題とされるようになったかを、一つひとつ順番に見ていきます。

広告

靖国神社のルーツは幕末の京都、「招魂祭」から始まった歴史

靖国神社の前身は、1862年(文久2年)、幕末の動乱の中で没した志士たちの霊を祀るために、京都東山の霊山で行われた「招魂祭(しょうこんさい)」にさかのぼります

「招魂」とは、幽界にある霊魂を一時的に招き降ろして祀ることです。藩を超えた志士たちが自分たちの仲間の死を悼んで始めたこの祭りが、靖国神社の精神的な原点です。

明治元年(1868年)、新政府は布告を発し、京都の霊山に正式な招魂社を設け、幕末の尊王派の殉難者と、戊辰戦争で官軍側として戦って亡くなった人々の霊を祀りました。各地の藩もこれにならって招魂社を建て、明治6年(1873年)までにその数は全国で100を超えました。

広告

九段に「東京招魂社」が建てられた理由

明治2年(1869年)、東京遷都にともない、官軍の全戦没者を一か所に祀る招魂社を東京に作ることが決まりました。

最初は上野が候補地として挙がりましたが、戊辰戦争で多くの幕府軍(彰義隊)が戦死した場所であることから「亡魂の地」として避けられ、九段の地が選ばれました。

同年6月に造営が始まり、わずか10日で竣工。6月29日に招魂式が行われ、戦没者3,588名の霊が仮本殿に鎮祭され、「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」と称しました。これが靖国神社の直接のはじまりです。

その後、明治12年(1879年)、明治天皇の「聖旨」にもとづき「靖国神社」と改称し、別格官幣社に列格されました

「靖国」という名には「国を安らかにする」という意味が込められています。なお、全国各地に建てられた招魂社はのちに靖国神社を総本社とするとされ、昭和14年(1939年)にはすべて「護国神社」と改称しています

広告

靖国神社と他の神社の3つの違い

靖国神社には、一般の神社にはみられない大きな特徴が3つあります。この三つを知ることが、靖国問題を理解するうえでの出発点になります。

特徴1 人間をまとめて「神」として祀った

一般の神社は古来の神々や特定の人物を祀るものです。靖国神社が特別なのは、動乱や戦争で亡くなった人間を「祖国に殉じた尊い神霊(靖国の大神)」として、身分や階級の別なく一律に合祀する点にあります。靖国神社の発表によれば、2014年(平成26年)現在で祭神数は246万6千余柱にのぼります。

合祀の神事は、戦死者の霊を招魂場(斎庭)に招き迎えて「御羽車」という神輿に乗せ、神殿へと移して鎮祭するという二段階で行われ、天皇の親拝が続くという形式でした。合祀された人々の名前は霊璽簿(れいじぼ)に謹書され、本殿に奉安されています。

特徴2 軍部が所管した神社だった

一般の神社は内務省が所管していましたが、靖国神社は創建当初から軍部が運営に深く関わっていました。明治20年(1887年)からは陸軍省と海軍省の共同管轄となり、昭和10年(1935年)以降は合祀者の審査・選定も陸海軍両省の手に完全に委ねられました。

これは靖国神社が単なる宗教施設ではなく、国家の軍事組織と一体となった施設だったことを意味します。この点が、戦後に「国家神道・軍国主義のシンボル」とみなされる根拠のひとつになっています。

特徴3 合祀の基準が時代とともに拡大された

創建当初は、明治維新前後の「新政府側の戦死者」だけが合祀の対象でした。しかし日清・日露と対外戦争が続くにつれ、民間人を含む戦没者全般へと合祀の対象基準が広がっていきました。最終的には太平洋戦争での戦没者まで含まれ、その数は急増していきます。

年月 合祀者数 年月 合祀者数
昭和4年4月 167 昭和15年4月 12,799
昭和7年4月 531 昭和15年10月 14,400
昭和8年4月 1,711 昭和16年4月 14,976
昭和9年4月 1,668 昭和16年10月 15,013
昭和10年4月 814 昭和17年4月 15,017
昭和11年4月 974 昭和17年10月 15,021
昭和12年4月 1,148 昭和18年4月 19,987
昭和13年4月 4,532 昭和18年10月 19,991
昭和13年10月 10,334 昭和19年4月 20,005
昭和14年4月 10,389 昭和19年10月 20,197
昭和14年10月 10,379 昭和20年4月 41,318

※戦時中は年2回、臨時大祭で合祀。秦郁彦「靖国神社の祭神たち」より。昭和前期の累計は375,326柱。

昭和13年(1938年)以降、日中戦争の本格化とともに合祀者数が急増しているのがわかります。昭和20年4月には1回で4万人を超えており、戦争の激化と靖国神社の規模拡大が表裏一体だったことがわかります。

広告

戦前の靖国神社には競馬やサーカスもあった

「軍国主義のシンボル」というイメージが強い靖国神社ですが、日清戦争(1894年)以前の境内では競馬やサーカスが興行され、老若男女でにぎわう東京の新名所でもありました。花見や相撲なども行われ、明治の人々にとっては祭りの場でもあったのです。

こうした側面は現代ではほとんど語られませんが、靖国神社がはじめから「戦争の神社」として設計されたわけではなく、英霊を慰霊しつつ遺族や市民が集う場所として機能していた時代があったことを忘れるべきではないでしょう。

広告

東京裁判とは何か、「A級」の意味

靖国問題を語るうえで欠かせないのが「東京裁判(極東国際軍事裁判)」です。1946年から1948年にかけて、連合国11か国が共同で日本人指導者28名を裁いたこの裁判で、被告は三つの罪に分けられました。

「A級」は「平和に対する罪」——つまり侵略戦争を計画・開始・遂行したという罪で、閣僚や陸海軍幹部など国家の最高指導者層が対象とされました

「B級・C級」は虐殺・拷問・捕虜虐待などの残虐行為を問うものでした。

A・B・Cの区分は「重さ」の順番ではなく、罪の「種類」の違いです。最終的に東條英機元首相ら7名が死刑、16名が終身禁固などの刑を受けました。しかしこの裁判については、「勝者が敗者を裁いた」「事後法による裁判だ」という批判が当初から国際法学者の間にもあり、インドのパール判事など無罪意見を出した判事も存在しました。

広告

なぜA級戦犯が靖国神社に祀られたのか

戦後、靖国神社の祭神は戦前のように軍部が決める仕組みではなくなりました。代わりに、旧陸海軍省の業務を引き継いだ厚生省(現・厚生労働省)が戦没者の身分調査票を靖国神社に提供し、神社側が祭神名票を作成する形になりました。

1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、日本政府は戦傷病者戦没者遺族等援護法を制定し、改正恩給法の支給対象に戦犯も含めました。さらに1952年には拘禁中に死亡した戦犯者を「法務死(こうむし)」——つまり「職務による死」——として処理する措置がとられました。これは戦犯を一般の戦死者と同列に扱う根拠となりました。

こうした流れの中で、靖国神社は1959年にBC級戦犯の刑死・獄死者を合祀します。しかしA級戦犯については、当時の宮司・筑波藤麿が「天皇陛下の親拝の障害になりかねない」と慎重に考え、長年にわたって「宮司預かり」として保留にしてきました。

状況が変わったのは1978年のことです。同年3月に筑波宮司が急逝し、後任として就任したのが元海軍少佐・元陸上自衛官の松平永芳(まつだいら ながよし)でした。松平は「東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできない」という強い信念を持ち、就任からわずか3か月後の同年10月17日、東條英機ら14柱のA級戦犯を秘密裏に「昭和殉難者」として合祀しました。靖国神社の公式の記録では「戦犯」「法務死」という言葉は一切使わず、「昭和殉難者」と記されています。

この合祀は翌1979年4月19日、朝日新聞のスクープで広く知られることになります。

広告

問題が表面化したのはいつか——中曽根参拝と国際問題化

A級戦犯合祀が公になった1979年から1985年まで、歴代首相は計21回にわたって靖国神社に参拝しており、この間は中国・韓国からの抗議はほとんどありませんでした。

状況が大きく変わったのは1985年8月15日です。中曽根康弘首相が「公式参拝」を宣言して終戦記念日に参拝したことを、朝日新聞が大きく報道。その一週間後、中国政府が史上初めて靖国神社参拝への公式な非難を表明しました。以後、首相や閣僚が参拝するたびに中国・韓国から強い反発が生じるという構図が定着していきます。

靖国問題が外交問題化した直接のきっかけは、A級戦犯合祀から7年後の「公式参拝宣言」と、それに続く報道の連鎖だったということです。

広告

昭和天皇は参拝を取りやめた——富田メモが示すもの

A級戦犯合祀後、昭和天皇は靖国神社への親拝を取りやめました。その理由は長い間はっきりしませんでしたが、2006年(平成18年)、当時の宮内庁長官・富田朝彦が書き残した手帳メモ(「富田メモ」)が日本経済新聞によって報道され、昭和天皇がA級戦犯の合祀に強い不快感を持っていたことが明らかになりました。

メモには昭和天皇の発言として次のような内容が記されています。「私はある時に、A級が合祀され、その上松岡、白鳥までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。……だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」

昭和天皇は1975年以降、合祀前から参拝を行っていませんでしたが、富田メモはその理由を示すものとして大きな注目を集めました。天皇みずからが合祀を問題視していたという事実は、「靖国神社は天皇陛下を守るための神社である」という靖国の自己像と、深刻な矛盾をはらんでいます。

参拝の何が問題とされているのか——整理してみると

靖国神社への参拝、特に首相や閣僚による参拝が問題とされる理由は、一つではなく複数の論点が絡み合っています。

まず日本国内の問題として「政教分離」があります。日本国憲法は国家と宗教の関係を厳しく分けており、宗教施設である靖国神社に公人が公式に参拝することは憲法違反にあたるのではないかという議論があります。

次に外交上の問題です。A級戦犯が「平和に対する罪」で有罪とされた連合国の判断は、日本がサンフランシスコ講和条約で受け入れたものです。その戦犯が合祀された施設に首相が参拝することを、隣国は「戦争を肯定しているのか」と受け止めます。特に中国・韓国は戦時中に日本の支配下に置かれた歴史があり、反発は政治的な意味を持ちます。

一方、参拝を擁護する立場からは、次のような主張がなされています。靖国神社は国のために命を捧げた人々を祀る場所であり、首相や国民が参拝するのは当然の追悼行為だという考えです。また「A級戦犯」という区分はあくまで東京裁判の枠組みであり、日本の国内法的には全員が「法務死」として処理されている、という法的な主張もあります。さらに「他国も戦没者を祀る施設への参拝をやめていない」という比較論も挙げられます。

どちらの立場も、単純に「正しい・間違い」とは言い切れない複雑な歴史と法的・倫理的な問いを含んでいます。この問題を考えるうえで大切なのは、「A級戦犯がいるから問題だ」という一点だけではなく、靖国神社がどのような歴史をたどってきた施設なのか、誰がどのような意図でA級戦犯を合祀したのか、そして天皇陛下はどう考えていたのかも含めて、全体の文脈を知ることではないでしょうか。

まとめ 靖国神社の歴史を時系列で整理

できごと
1862年(文久2年) 京都東山の霊山で、幕末の志士を祀る「招魂祭」が始まる
1868年(明治元年) 明治新政府が京都霊山に招魂社を創建。戊辰戦争の官軍戦没者を祀る
1869年(明治2年) 東京九段に「東京招魂社」が創建。3,588名の霊を鎮祭
1879年(明治12年) 「靖国神社」に改称。別格官幣社に列格
1887年(明治20年) 陸軍省・海軍省の共同管轄となる
1939年(昭和14年) 全国の招魂社が「護国神社」に改称
1945年(昭和20年) 終戦。GHQが国家神道廃止を命じる(神道指令)
1952年 講和条約発効。戦犯の「法務死」処理が行われる
1959年 BC級戦犯の刑死・獄死者を合祀
1978年10月17日 松平永芳宮司がA級戦犯14柱を秘密裏に「昭和殉難者」として合祀
1979年4月19日 朝日新聞がA級戦犯合祀をスクープ報道
1985年8月15日 中曽根首相が公式参拝を宣言。以後、中韓が毎回批判する構図が定着
2006年 「富田メモ」報道。昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことが判明

靖国神社は幕末の志士たちの霊を慰めるための「招魂」の精神から生まれ、明治・大正・昭和を通じて国家と軍とともに歴史を重ねてきた神社です。参拝が問題になったのは昭和53年(1978年)のA級戦犯合祀と、1985年の首相公式参拝以降のことであり、靖国神社そのものの歴史の中では比較的新しい論争です。

「英霊を祀ること」と「A級戦犯の合祀」を切り離して考えることができないかという議論や、分祀論なども提起されてきましたが、靖国神社側は「合祀した神霊を分けることはできない」という立場を変えていません。

この問題に正解はないかもしれませんが、歴史の経緯を知らずに「参拝すべき」「すべきでない」と感情だけで判断するのではなく、靖国神社が何のために、どのような経緯で今の姿になったかを学んだうえで、自分なりに考えてみてください。

 

広告