雄略天皇の治世を支えた「渡来人」、古代国家形成のエンジニアたち

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第21代雄略天皇の時代である5世紀後半は、日本列島の社会構造が劇的な変化を遂げた時期です。この変革の原動力となったのが、朝鮮半島や中国大陸から渡来した「渡来人(とらいじん)」たちの存在でした。雄略天皇は彼らの持つ高度な技術や知識を積極的に組織化し、ヤマト王権の基盤を盤石なものへと作り替えました。

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渡来人の集団化と「部(べ)」の編成

雄略天皇の統治において特筆すべき点は、渡来人を単なる技術者として受け入れるだけでなく、「部(べ)」と呼ばれる職業部族へと再編したことです。これにより、特定の技術を持つ集団が王権の直轄下に置かれ、国家運営に必要な物資やサービスを安定して供給する体制が整いました。

特に有名なのが「今来の才伎(いまきのてひと)」と呼ばれる人々です。これは雄略天皇の時代に新たに渡来した、優れた技術を持つ人々を指します。彼らは陶芸、鞍作り、絵画、錦織といった多岐にわたる専門分野に分かれ、王権の権威を象徴する豪華な工芸品や軍備の製作に従事しました。

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秦氏(はたうじ)と漢氏(あやうじ)の台頭

渡来系氏族の中でも、雄略天皇と深い関わりを持ったのが秦氏と漢氏です。これらの氏族は、単なる職人集団のリーダーにとどまらず、王権の財政や外交を支える官僚的な役割も担うようになりました。

以下の表は、この時期に活躍した主要な渡来系集団とその役割をまとめたものです。

氏族・集団名 主な役割と貢献 雄略天皇とのエピソード
秦氏(はたうじ) 養蚕、機織、土木技術の導入。財政管理。 秦酒公(はたのさけのきみ)が各地の秦人を集め、絹をうず高く積んで献上した。
東漢氏(やまとのあやうじ) 文筆、外交、高度な手工業技術。 優れた技術者集団を統率し、王権の記録や外交文書の作成を支えた。
陶部(すえつくりべ) 須恵器(すえき)の製作。 高温で焼成する新しい陶器の技術を確立し、祭祀や生活を一変させた。

秦氏の祖とされる秦酒公は、雄略天皇から厚い信頼を得て、全国に分散していた秦氏の民を統率することを許されました。彼らが生産した絹織物は王権の財源となり、その財力は雄略天皇の強力な軍事行動を支える経済的基盤となりました。

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須恵器と鉄器生産といった革新的な技術

渡来人がもたらした技術革新の中でも、社会のあり方を根本から変えたのが「須恵器(すえき)」の生産技術と「製鉄・鍛冶」の発展です。それまでの弥生土器の流れを汲む土師器(はじき)とは異なり、大陸式の穴窯を用いて高温で焼き締められた須恵器は、非常に硬く吸水性が低いという特徴を持っていました。

また、鉄器の生産も飛躍的に向上しました。渡来系の鍛冶集団は、より鋭利な武器や効率的な農具を製作する技術を伝えました。これにより、開墾が進んで農業生産力が向上するとともに、ヤマト王権は圧倒的な軍事力を保持することに成功しました。雄略天皇が「ワカタケル大王」として全国に名を轟かせることができた背景には、これら渡来系技術者による軍事革命があったと言っても過言ではありません。

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識字能力と国際外交の展開

渡来人たちがもたらした最も重要な資質の一つが「文字」の知識です。当時の日本列島において、文字を読み書きできる能力は渡来系の人々に独占されていました。彼らは「史(ふひと)」として、王権の出納記録や外交文書の作成に携わりました。

中国の『宋書』に記録された、雄略天皇(倭王武)による堂々たる上表文も、こうした渡来系の文官たちの協力によって作成されたと考えられています。高度な漢文を駆使した外交交渉は、東アジア情勢の中でヤマト王権が正当な地位を確立するために不可欠なものでした。文字による管理体制の導入は、神話的な統治から、文書に基づく初期的な官僚制へと移行する第一歩となったのです。

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文化・宗教への影響と国家の変貌

技術や政治面だけでなく、渡来人は精神文化の面でも大きな影響を及ぼしました。彼らが持ち込んだ大陸の意匠や装飾品は、古墳の副葬品をより豪華なものへと変化させました。また、仏教伝来以前の素朴な信仰の中に、儒教的な倫理観や大陸風の儀礼が混じり合い始めたのもこの時期です。

雄略天皇が目指した強力な中央集権国家は、渡来人たちの知恵と技術を、王権という一本の柱に集約することで実現しました。彼らがもたらした「新風」は、日本列島の古い殻を打ち破り、次代の律令国家へと続く道のりを照らす光となったのです。

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