御朱印集めが日本人の心理・趣味として魅力的な理由と危険性

近年、神社において御朱印を授与いただく参拝者が増えています。御朱印帳を手に、各地の神社を訪れ、その証を記録することが、一つの趣味や文化として根付いていると言えるでしょう。

しかし、御朱印とは単なる記念品や収集物ではなく、神様とのご縁をいただくための尊い証であり、その意味を理解し、敬意をもって授かることが大切です。

この記事では、日本人がなぜ御朱印に魅力を感じるのか、また、御朱印集めにおける注意点や危険性について、神道の視点から解説いたします。

御朱印に惹かれる日本人の心理と文化的背景

御朱印とは

御朱印は、もともと神仏習合の時代、お寺で写経を納めた証として授与されていたものです。それが次第に神社にも広がり、現在では「参拝した証」としていただけるようになりました。

神社本庁によれば、御朱印は単なる「参拝記録」ではなく、その神社の御祭神とのご縁を結ぶ大切な印とされています。御神名や神紋、日付が記されており、それはまさに「神様のご分霊」ともいえる存在です。

古来より続く巡礼の文化

日本には古くから聖地巡礼の文化が存在します。その代表例としては、

  • 西国三十三所観音霊場巡礼
  • 四国八十八ヶ所霊場巡礼

などが挙げられます。

これらの巡礼は、単に寺社を訪ね歩くものではなく、信仰心を深め、自らの心を清めるための修行の道でありました。各所を巡ることで、祈りを捧げ、感謝を伝え、さらには功徳を積むとされるこの行為は、日本人の精神性と深く結びついています。

日本人のアニミズム的世界観

日本においては古来より、アニミズム(万物に神が宿るという考え方)が根付いており、神道の根幹をなしています。山や川、木々、さらには道具や住まいにも神が宿ると考え、あらゆるものに敬意を払う精神が育まれてきました。あらゆるものに神様が宿るということに合わせ、それぞれの「土地」にも氏神様や鎮守社があり、それぞれの父の人々が信仰をし祈りをささげている場所があります。

この思想は、現代においても形を変え、例えば「ポケットモンスター(ポケモン)」というコンテンツにも反映されています。ポケモンでは、さまざまな属性を持つ存在を「仲間にする」という行為が、神道の「多神崇拝」や「自然崇拝」の延長線上にあるといわれています。

御朱印を集めるという行為もまた、さまざまな神社の神々とご縁を結び、その証を大切に手元に置くという、日本人が古くから親しんできた信仰の形の一つなのです。

ポケモンGOと御朱印集め

現代日本で爆発的な人気を誇った「ポケモンGO」と、全国の神社仏閣で静かな広がりを見せる「御朱印集め」。この両者は、一見無関係に見えながら、実は日本固有の精神文化、すなわちアニミズムや八百万神(やおよろずのかみ)信仰に基づく世界観と深く結びついています。

古来より日本人は、「古事記」や「日本書紀」に記されるように、森羅万象すべてに神が宿ると考えてきました。これを「万物に魂が宿る」とするアニミズム的信仰といいます(参考文献:谷省吾『日本神話の考古学』吉川弘文館、2015年)。例えば、京都の下鴨神社では、境内の糺の森そのものが御神体であり、自然そのものを神聖視する信仰が色濃く残っています。また、奈良の春日大社では、鹿が神の使いとされるなど、動植物に神性が認められるのも特徴です。

こうした自然崇拝や多神教的な価値観は、ゲーム「ポケットモンスター」シリーズに色濃く反映されています。ポケモンは「でんき」「みず」「くさ」などの属性(エレメント)を持ち、プレイヤーがその力を借りて共に旅をするという仕組みは、まさに神と人との共存・共闘を描いた神道的世界観の現代的表現といえます。特に「ポケモンGO」は、プレイヤー自らが各地を訪れ、土地固有のポケモンと出会い、縁を結ぶという構造を持ちます。これは、四国八十八ヶ所霊場や西国三十三所観音霊場を巡る巡礼者が、それぞれの寺社で御本尊や御祭神と縁を結び、御朱印をいただく行為と極めて類似しています。

さらに、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮や、東京大神宮などは、御朱印が参拝者の信仰心を深めるきっかけとして大いに役立っている神社の代表例です。これらの神社では、御朱印を求める参拝者が年々増加しており、その背景には「ご縁をいただく」という日本人特有の精神性があると言えるでしょう。

御朱印は、単なる収集品ではなく、神と人を結ぶ「ご神縁」の証であり、それを集めるという行為は、日本人が古代から続けてきた「巡礼」や「霊場巡り」における精神修養の一環です。ポケモンGOと御朱印集めは、いずれも土地と縁を結び、目に見えない力を宿す存在とつながるという、日本独自の信仰観の現代的な形と位置づけられるのです。

世界各地に見られる「巡礼」と日本の御朱印文化

日本における御朱印巡りは、世界各地の宗教における巡礼とも通じるものがあります。

例えば、

  • キリスト教におけるサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼
  • イスラム教におけるメッカ巡礼(ハッジ)聖地
  • ヒンドゥー教におけるクンブ・メーラ巡礼

いずれも、聖地を巡ることにより信仰を深め、自らの心を浄化する目的があります。日本人が御朱印帳を手に巡る行為も、精神的な巡礼の旅であり、神社を訪れて手を合わせ、心を鎮めることで、自らを見つめ直す時間となります。

日本は特定の宗教に強く執着するような思想を持っていないため、他国よりも気軽な気持ちで神社や寺院などを巡っている傾向があります。日本らしい文化といえばそうなのですが、このような御朱印集めという趣味からみえる危険性についても少し触れておきたいと思います。

御朱印集めに潜む危険性

御朱印をいただくことは、あくまで神様への感謝と祈りの証であり、神社参拝の一環であります。しかし近年、御朱印集めそのものが目的化し、本来の信仰心を忘れてしまう事例が散見されるようになりました。

本来の意味を見失う危うさ

御朱印は、「参拝を終えた証」として授与されるものです。
ところが、御朱印を「収集物」としてのみ捉え、

  • 早く次の神社へ行かなければならない
  • 少しでも多くの御朱印を集めたい

といった強迫観念に駆られ、参拝そのものがおろそかになってしまうことがあります。
これは本末転倒であり、御朱印は神様とのご縁の証であることを忘れてはなりません。
神様に向き合い、心を整えて参拝し、感謝の気持ちを伝えた後に、慎ましくいただくものなのです。

転売目的で御朱印・御朱印帳をかき集める行為、コレクターと売人

近年メルカリなどのフリマアプリがたくさんの人に利用されるようになり、その中で自分のために授けていただいた御朱印を転売するような行為も見られるようになってきました。説明してきたように、御朱印とは神社や神様とその本人との繋がりやご縁を表すもので、その人が参拝をした証としての意味合いのものです。これは御朱印を発行する神社側にも落ち度がありますが、デザイン性に優れた限定版の御朱印やアーティストとコラボするなど珍しい御朱印を発行し、それを手にするために転売目的の人が押し寄せるということがあります。神社側も経済的な理由や、なるべく神社に足を運んで参拝してもらいたいという思いなどからこのような企画をすることがありますが、ただ御朱印を集めてお参りもせずにそそくさと帰っていくというようなご様子も見られます。人の名刺を売るような行為なので、売る側も問題がありますが、御朱印集めをただのコレクションとしてしかとらえておらずそれを購入して満足している人がいることも事実です。

境内でのマナー違反

御朱印を求めるあまり、

  • 境内での過度な写真撮影や動画配信
  • 授与所での長時間の撮影や配信
  • 行列を無視して割り込む行為

など、聖域において相応しくない行動が問題となっています。

神社は、神様の鎮まる神域であり、静謐な環境を保つことが大切です。
参拝者一人ひとりが、慎みと敬意をもって行動することが、神様への礼儀であることを再認識する必要があります。

御朱印巡りは「心の巡礼」である

御朱印集めは、単なる趣味や観光の一環ではなく、神様と自らの心をつなぐ巡礼の旅であることが本来の意義です。

  • その神社の由緒や御祭神を学び
  • 静かに手を合わせ、祈り
  • 授与された御朱印に感謝する

これらの行為を通じて、神様とのご縁が深まり、日常生活の中でもその加護を感じることができるでしょう。

まとめ

御朱印集めは、日本人の信仰心や文化的背景に深く根付いた行為であり、

  • 古くからの巡礼文化
  • アニミズムに基づく多神崇拝
  • ご縁を大切にする精神性

によって、現代にまで受け継がれています。
しかし、その本来の意味を見失い、御朱印を収集物として扱い、神社の神聖さを損なう行為に走ることは、慎まなければなりません。
私たちは、日本人としての誇りと礼節を守り、神様への敬意と感謝をもって御朱印巡りを行うことが大切です。
御朱印は、私たちの心の中にある信仰の証であり、その一つひとつが、神様からのご縁の授かりものなのです。