坂上田村麻呂は何した人?征夷大将軍として蝦夷を降伏、清水寺を建立

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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期に活躍した武官で、日本史上初めて「征夷大将軍」に任じられた人物です。桓武天皇の信任を受け、東北の蝦夷との戦いに従軍し、阿弖流為(アテルイ)の降伏を受け入れたことで知られています。

また、京都の名刹・清水寺の創建に深く関わったことでも有名です。その生涯は、史実と伝説が交錯しながら語り継がれてきました。本記事では、田村麻呂が何をした人物なのかを、歴史的背景と文化的な功績の両面から分かりやすく解説します。

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坂上田村麻呂の生涯と時代背景

坂上田村麻呂は758年に生まれ、坂上氏という武門の家系に育ちました。奈良時代から平安時代への転換期である8世紀後半から9世紀初頭は、桓武天皇のもとで国家体制の再編が進められた時代でした。中央政府は律令制の維持と東北地方の支配拡大を目指しており、その最前線で戦ったのが田村麻呂でした。彼は軍人としての能力だけでなく、忠実な側近としても桓武天皇の厚い信頼を受けていました。

坂上田村麻呂がしたこと年表

坂上田村麻呂の事績は、当時の朝廷が編纂した六国史に記録されています。

坂上田村麻呂の生涯は、蝦夷征討を中心とする軍事活動と、朝廷への忠誠によって特徴づけられます。

特に797年の征夷大将軍就任と801年の阿弖流為降伏は、日本古代史の大きな転換点でした。さらに清水寺建立への関与など文化的事績もあり、単なる武将ではなく宗教や文化の守護者としても記憶されています。

年代 和暦 出来事
758年 天平宝字2年 坂上田村麻呂が誕生。坂上氏は武門の家系であり、のちに軍事的才能を発揮する基盤となる。
780年 宝亀11年 伊治城の乱(蝦夷による焼き討ち)が発生。田村麻呂はまだ若年ながら東北経営の必要性を強く意識する時期にあたる。
791年 延暦10年 東北遠征に従軍。以後、蝦夷との戦いで頭角を現す。
794年 延暦13年 桓武天皇が平安京へ遷都。田村麻呂は側近として仕え、蝦夷征討の準備を進める。
797年 延暦16年 征夷大将軍に任命される。日本史上初めての征夷大将軍となる。
789年 延暦8年 紀古佐美の大軍が蝦夷に大敗(巣伏の戦い)。田村麻呂はこの経験を踏まえ、蝦夷攻略の方針を練る。
801年 延暦20年 大規模な遠征を実施。阿弖流為・母礼が降伏。助命を願うが、朝廷の反対により二人は処刑される。
802年 延暦21年 胆沢城を築城し、東北統治の拠点とする。また志波城の建設にも関与。
803年 延暦22年 蝦夷の残党討伐を継続し、東北経営を安定させる。
807年 大同2年 蝦夷の再蜂起(薬子の変に関連する反乱)を鎮圧する。
810年 大同5年 平城上皇による薬子の変が発生。田村麻呂は忠実に桓武天皇・嵯峨天皇側に仕え、朝廷の秩序維持に尽力。
811年 弘仁2年 坂上田村麻呂が死去(54歳)。死因は病死とされる。死後、従二位・太政大臣の位を追贈される。

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蝦夷との戦いと征夷大将軍への任命

当時、東北地方には大和朝廷に従わない蝦夷が勢力を持っていました。桓武天皇は彼らを服属させるために大規模な軍事遠征を行い、その総大将に任じられたのが田村麻呂でした。彼は791年から数度にわたって蝦夷征討に従軍し、797年には史上初の「征夷大将軍」として任命されます。この称号は後世の源頼朝や足利尊氏にも受け継がれる日本史上の重要な官職となりました。

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阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の降伏

蝦夷の指導者として知られるのが阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)です。

彼らは胆沢地方を拠点に強力な抵抗を続け、朝廷軍を何度も苦しめました。しかし801年の大規模遠征において田村麻呂は蝦夷を追い詰め、最終的に阿弖流為と母礼は田村麻呂に降伏します。田村麻呂は二人の勇敢さを称え、命を助けるよう朝廷に進言しましたが、京都の貴族たちの反対により処刑されました。この一連の出来事は、征服戦争の中で生まれた悲劇として後世に語り継がれています。

田村麻呂は二人の助命を願い出たのはなぜ?

阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が801年に坂上田村麻呂へ降伏した際、田村麻呂が二人の助命を願い出た理由については、史料と後世の解釈から大きく三つの要因が考えられています。

阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が801年に坂上田村麻呂へ降伏した際、田村麻呂が二人の助命を願い出た理由については、史料と後世の解釈から大きく三つの要因が考えられています。

1. 武勇と統率力への敬意

『日本後紀』などによれば、阿弖流為と母礼は大和朝廷に幾度も勝利を収め、特に789年の巣伏の戦いでは大軍を破るほどの軍略を示しました。田村麻呂はその勇敢さと統率力を高く評価し、敵でありながら「真に優れた武将」として尊敬の念を抱いていたと考えられます。そのため、彼らを無下に処刑することは惜しく、むしろ活かすべきと感じたのです。

2. 東北支配の安定のため

阿弖流為と母礼は蝦夷の中でも強大な指導者でした。もし彼らを生かして朝廷側に取り込むことができれば、降伏に応じた蝦夷勢力の人心も安定し、東北支配を円滑に進めることができると田村麻呂は考えたとされています。実際、彼らを処刑することで蝦夷の反発をさらに強めるリスクもありました。助命嘆願は政治的配慮でもあったのです。

3. 田村麻呂の人格と将軍としての矜持

坂上田村麻呂は「武勇と仁徳を兼ね備えた将」と伝えられています。戦いに勝利したあと、敵の将を敬意をもって扱うことは、中国や朝鮮の兵法思想にも見られる「将の器」を示す行為でした。田村麻呂が助命を願ったのは、単なる情けではなく、自らの将としての矜持と、蝦夷と和解したいという誠意の表れだったと解釈されています。

結果と歴史的評価

田村麻呂の進言は退けられ、阿弖流為と母礼は平安京で処刑されました。この決定は都の貴族たちが「東北支配の妨げになる」と恐れたためとされています。しかし後世では、田村麻呂の助命嘆願は「敵をも敬う武将としての高潔な姿勢」として評価され、阿弖流為と母礼は「勇敢な蝦夷の悲劇の英雄」として語り継がれることになりました。

阿弖流為との戦いの経過 年表

年代 和暦 出来事
774年 宝亀5年 蝦夷が多賀城を襲撃し、朝廷軍を大きく破る。大和朝廷は東北支配の困難を痛感する。
780年 宝亀11年 蝦夷が伊治城(いじのき)を焼き討ち。朝廷の拠点が壊滅し、征討軍は大敗。阿弖流為の勢力が台頭する。
789年 延暦8年 征東大将軍・紀古佐美が蝦夷討伐の大軍を率いるが、阿弖流為の軍に破れ壊滅的な敗北を喫する(巣伏の戦い)。朝廷軍は約千人以上の戦死者を出したと記録される。
791年 延暦10年 坂上田村麻呂が東北経略に従軍。以後、数度にわたり蝦夷との戦闘に参加する。
797年 延暦16年 桓武天皇が田村麻呂を「征夷大将軍」に任命。史上初の征夷大将軍として本格的な東北征討の総大将となる。
801年 延暦20年 坂上田村麻呂が大軍を率いて蝦夷討伐を実施。胆沢地方に進軍し、阿弖流為と母礼(モレ)が降伏。田村麻呂は二人の助命を願い出るが、朝廷の反対により京都で処刑される。
802年 延暦21年 胆沢城を築城し、東北経営の拠点とする。阿弖流為の死は蝦夷支配確立の象徴となった。

この年表から分かるように、阿弖流為との戦いは20年以上にわたり続きました。特に789年の巣伏の戦いでの大敗は朝廷に大きな衝撃を与え、田村麻呂の起用につながりました。最終的に801年に阿弖流為が降伏することで、蝦夷の大規模な抵抗は終焉を迎えます。しかし、田村麻呂が助命を願ったにもかかわらず処刑されたことは、後世に悲劇として語り継がれています。

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清水寺の建立と文化的功績

坂上田村麻呂は軍事だけでなく、文化的な面でも重要な足跡を残しています。その代表例が京都の清水寺の建立です。寺の縁起によると、音羽の滝で修行していた僧・延鎮に出会った田村麻呂が、観音菩薩への信仰を深めて伽藍を寄進したことが清水寺の始まりとされています。今日では清水寺は世界遺産にも登録され、日本を代表する観光名所であると同時に、田村麻呂の信仰と文化的影響を伝える場となっています。

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伝説に残る田村麻呂とその死

田村麻呂は811年に54歳で亡くなりました。死因については明確な記録は残っていませんが、病によるものと考えられています。その後、彼の名は各地の伝説に登場し、鬼や蝦夷を討伐した英雄として信仰の対象にもなりました。

特に大江山の酒呑童子退治伝説や東北の鬼伝説には、田村麻呂が討伐者として登場する場合があり、史実と伝承が交わりながら「武勇の象徴」として記憶されています。

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坂上田村麻呂の歴史的意義

坂上田村麻呂は、日本の歴史において軍事と文化の両面で重要な存在でした。征夷大将軍として蝦夷を服属させたことは、日本国家の版図拡大を象徴し、その後の武士の役割にも影響を与えました。また清水寺建立に見られるように、宗教や文化の振興にも力を尽くしました。彼の功績と伝説は、単なる武将の枠を超えて、日本の歴史文化を形づくる一部として今日にまで伝わっています。

 

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