アテルイはなぜ処刑された?巣伏の戦いと坂上田村麻呂の助命嘆願

アテルイはなぜ処刑された?巣伏の戦いと坂上田村麻呂の助命嘆願

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祓え給い、清め給え

平安時代の初め、東北の地で大和朝廷の大軍を打ち破った蝦夷の指導者がいました。阿弖流為(アテルイ)と、その盟友である母礼(モレ)です。二人は坂上田村麻呂に降伏したのち、田村麻呂自身の助命嘆願も退けられ、河内の地で処刑されました。

この記事では、阿弖流為と母礼が生きた時代の背景、朝廷軍を壊滅させた巣伏の戦い、降伏に至る経緯、処刑の顛末、そして千二百年を経て現代に蘇った二人の評価まで、わかりやすく解説します。

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阿弖流為と母礼とはどのような人物でしょうか

阿弖流為は、胆沢(いさわ/現在の岩手県奥州市周辺)を拠点とした蝦夷の有力な指導者です。母礼は盤具(ばんぐ)の地を拠点とし、阿弖流為と行動を共にした人物とされます。

二人の名は『続日本紀』や『日本紀略』といった朝廷側の記録に登場します。つまり私たちが知る阿弖流為の姿は、戦った相手が残した記述をもとにしているということです。それでも彼らの名が記録に残されたこと自体が、朝廷にとってこの二人がいかに手強い存在であったかを物語っています。

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蝦夷と大和朝廷の対立

蝦夷(えみし)とは、東北地方を中心に暮らしていた人々を指す言葉です。彼らは未開の民ではなく、狩猟と漁労、そして交易によって独自の豊かな社会を築いていました。馬の扱いに長け、騎射に優れていたことも知られています。

大和朝廷は律令国家の完成に向けて、東北を版図に組み込もうとしました。城柵を築いて支配の拠点を設け、関東などから農民を移住させて開拓を進めます。しかし蝦夷にとってそれは、暮らしの場と生き方そのものを奪われることを意味しました。八世紀後半には各地で衝突が続き、七七四年の桃生城襲撃を発端とする三十八年戦争と呼ばれる長い戦いが始まります。

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巣伏の戦い 朝廷軍を壊滅させた大勝利

阿弖流為の名を歴史に刻んだのが、七八九年(延暦八年)の巣伏(すぶし)の戦いです。

征東将軍・紀古佐美が率いる朝廷軍は数万規模と伝えられ、北上川を渡って胆沢へ進軍しました。これを迎え撃った阿弖流為は、地形を知り尽くした戦い方で朝廷軍を分断します。追撃してきた部隊を川と山に挟まれた狭い地形へ誘い込み、包囲して壊滅させたのです。

項目記録に残る内容
789年(延暦8年)
朝廷側の指揮官征東将軍 紀古佐美
蝦夷側の指揮官阿弖流為
朝廷軍の損害戦死者と溺死者をあわせて千人を超えたと記録される
結果朝廷軍の大敗。紀古佐美は都に召還され責任を問われる

兵力で大きく勝る中央軍が、地の利を活かした蝦夷軍に完敗したのです。この敗北は朝廷に強い衝撃を与え、東北平定は国家の威信をかけた事業へと変わっていきました。

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坂上田村麻呂の登場と降伏

朝廷は態勢を立て直し、七九七年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じます。田村麻呂は武力一辺倒ではなく、降伏した蝦夷を厚遇し、城柵を築いて拠点を固めるという着実な方法で北上を進めました。

八〇二年、田村麻呂が胆沢城の造営に着手すると、阿弖流為と母礼は五百人余りを率いて投降します。長年にわたる戦いで疲弊した人々のことを考えた末の決断だったと考えられます。田村麻呂は二人を伴って都へ上りました。

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助命嘆願と処刑

都に着いた田村麻呂は、朝廷に対して二人の助命を願い出ます。二人を故郷に帰し、その力を借りて東北を治めるべきだという主張でした。長く戦った相手だからこそ、その統率力と人望を高く評価していたのでしょう。

しかし公卿たちはこれを退けました。「野性獣心、反復して定まりなし」つまり獣のような心を持つ者は再び背くに違いない、という理屈です。八〇二年八月、阿弖流為と母礼は河内国の杜山(現在の大阪府枚方市付近とされる)で処刑されました。

『日本紀略』が田村麻呂の助命嘆願とその却下をわざわざ書き残していることには、重い意味があります。勝者の記録でありながら、そこには決定への疑問がにじんでいるようにも読めるのです。

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二人の死が残したもの

阿弖流為と母礼を失った蝦夷の抵抗は、組織的な力を失っていきます。八一一年には朝廷が戦いの終結を宣言し、三十八年戦争は幕を閉じました。東北は律令国家の版図に組み込まれ、蝦夷の人々は俘囚(ふしゅう)と呼ばれて各地に移住させられていきます。

しかし東北の独自性が消えたわけではありません。後の時代には奥州藤原氏が平泉に独自の文化圏を築き、中央とは異なる歴史を刻んでいきます。阿弖流為たちが守ろうとした東北の自立の記憶は、形を変えながら受け継がれていったと見ることもできるでしょう。

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現代に蘇る阿弖流為

長く「まつろわぬ者」として語られてきた阿弖流為ですが、近年は郷土の英雄として再評価が進んでいます。

場所内容
清水寺(京都市)坂上田村麻呂ゆかりの寺として、境内に阿弖流為と母礼の顕彰碑が建てられている
牧野公園(大阪府枚方市)処刑地とされる場所の近くに首塚と伝わる塚があり、慰霊が続けられている
奥州市(岩手県)アテルイを郷土の英雄として顕彰し、関連する催しや資料館の展示が行われている

戦った相手である田村麻呂ゆかりの清水寺に顕彰碑が建つという事実は、とても日本的です。敵味方を超えて慰霊するという感覚が、千二百年後の現代にも生きているのです。小説や舞台、漫画の題材としても取り上げられ、阿弖流為の名は今や広く知られる存在になりました。

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筆者の考察

阿弖流為の物語を読むとき、筆者がいつも立ち止まるのは、坂上田村麻呂の助命嘆願の場面です。

田村麻呂は勝者でした。二人を差し出せば自らの武功はより輝いたはずです。それでもなお助命を願ったのは、長く戦い続けた相手の器量を誰よりも知っていたからでしょう。そして朝廷はそれを拒みました。現地を知る者の判断より、都の論理が優先されたのです。中央と地方のすれ違いという構図は、この時代に限った話ではないように思えます。

もう一点、蝦夷を「未開の民」と見る見方は、すでに考古学によって否定されています。彼らは馬を操り、鉄を扱い、北方との交易網を持つ人々でした。歴史は勝者によって書かれますが、そこに残された小さな記述や地面から出てくる物によって、敗者の姿も少しずつ立ち上がってきます。阿弖流為という名が今も語り継がれていることは、その何よりの証だと思います。

まとめ

阿弖流為は胆沢を拠点とした蝦夷の指導者で、母礼とともに大和朝廷の侵攻に抵抗しました。七八九年の巣伏の戦いでは紀古佐美率いる朝廷軍を地形を活かした戦術で壊滅させ、朝廷に大きな衝撃を与えます。八〇二年、坂上田村麻呂に投降して都へ送られましたが、田村麻呂の助命嘆願は退けられ、河内国で処刑されました。

二人の死をもって蝦夷の組織的な抵抗は終わりますが、その名は千二百年を経て郷土の英雄として蘇りました。京都の清水寺に建つ顕彰碑は、勝者と敗者を超えて祈りを捧げてきた日本の心のありようを、静かに伝えています。

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