
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」——この言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。1882年(明治15年)1月4日、明治天皇が陸海軍人に下した「軍人勅諭」の一節です。
正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」。
軍人が守るべき五つの徳目——忠節・礼儀・武勇・信義・質素——を中心に、天皇と軍隊の関係を宣言した文書で、陸軍では全文2843字の暗誦が義務づけられ、敗戦まで軍の精神的支柱となりました。
この記事では制定の背景を解説したうえで、原文全文と現代語訳を並べて掲載します。
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制定の背景——なぜ軍人勅諭が必要だったのか
軍人勅諭が生まれたのは、明治初期に相次いだ軍内外の動揺と政治的危機への対応からでした。
1877年(明治10年)の西南戦争では、西郷隆盛を擁する旧士族の反乱を徴兵制の新政府軍が鎮圧しましたが、軍の精神的統一の不足が課題として浮かびました。翌1878年には竹橋事件が起きます。近衛砲兵の兵士たちが待遇への不満から反乱を起こすという、軍内部の深刻な亀裂でした。直後に陸軍卿・山縣有朋が「軍人訓誡」を全将兵に配布しますが、これをさらに発展させ、天皇の名で直接下賜する形式にしたのが軍人勅諭です。
同時期には自由民権運動が高まりを見せており、軍人が政治に関与する事態を防ぎ、軍隊を天皇への絶対服従で固める必要もありました。起草は西周(にしあまね)が担い、福地源一郎・井上毅・山縣有朋が加筆修正したとされます。
通常の詔勅が太政官を経て発布されるのと異なり、天皇が軍に直接下した形式を採ったことが、後の「統帥権の独立」論に根拠を与え、昭和期の軍の政治介入にもつながります。
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軍人勅諭 原文全文
原文全文を掲載します。原文は内閣官報局所収のものです(ルビ・旧字体の一部は常用漢字に改めています)。
前文
我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅閒しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剰外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大將軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の恵に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
第一条 忠節
一軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
第二条 礼儀
一軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで其閒に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに對しては総へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠹毒たるのみかは國家の為にもゆるし難き罪人なるへし
第三条 武勇
一軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやはり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにてそ
第四条 信義
一軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己が分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
第五条 質素
一軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陥りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起こりては彼の傳染病の如く蔓延し士風も平氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其惡習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等間にな思ひそ
後文
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さむ日本國の蒼生擧りて之を悦ひなむ朕一人の懌のみならんや
明治十五年一月四日
御名
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軍人勅諭 現代語訳 全文
以下は原文の現代語訳です(当サイトによる意訳となります)。
前文(現代語訳)
わが国の軍隊は、代々天皇が統率されるところにある。昔、神武天皇みずから大伴・物部の兵たちを率い、国内の帰順しない者どもを討ち平げ、皇位につかれて天下を治められてより、二千五百年余りが経った。この間、世の移り変わりにしたがって、兵制の変遷もまたたびたびであった。
古くは天皇みずから軍を率いられる制度で、時には皇后・皇太子が代わることもあったが、おおよそ兵権を臣下に委ねることはなかった。中世に至り、文武の制度をみな唐(中国)の風にならい、六衛府を置き左右馬寮を建て、防人などを設けたので兵制は整ったが、平和が続くのに慣れて、朝廷の政務もしだいに文弱に流れた。そのため兵と農はおのずから二つに分かれ、古代の徴兵はいつしか志願の形に変わり、ついには武士となった。軍事の権限はすべて武士たちの頭領に帰し、世の乱れとともに政治の大権もその手に落ち、およそ七百年のあいだ武家の政治となった。
世のさまの移り変わってかくなったのは、人の力では挽回できなかったともいえるが、一方ではわが国体に反し、かつ祖先の御制に背くことであって、嘆かわしいことであった。
時が下って弘化・嘉永のころより徳川幕府の政治は衰え、さらに外国との問題も起こって侮りを受けかねない情勢に迫り、わが祖父仁孝天皇・先代孝明天皇をいたく悩ませたことは、かたじけなくもまたおそれ多いことであった。しかるに朕が幼くして皇位を継承した当初、征夷大将軍が政権を返上し、大名・小名は版籍を奉還した。年を経ずして国内が統一され、古代の制度が復活した。これは文武の忠臣・良臣が朕を補佐した功績であり、歴代天皇がもっぱら民を憐れみ給いし御遺徳によるものではあるが、同時にわが臣民が心に順逆の道理をわきまえ、大義の重さを知っていたからこそである。
そこでこの時機に兵制を改め、わが国の光輝を輝かさんと考え、この十五年ほどで陸海軍の制を今のように定めた。そもそも軍事の大権は朕が統帥するものであって、その各部署は臣下に任せるが、その大綱は朕みずから掌握し、臣下に委ねるものではない。子々孫々に至るまで、この旨を篤く伝え、天子は文武の大権を掌握するという義を存し、再び中世以降のような失態がないことを望む。
朕は汝ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首と仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を守護し、天の恵みに応え祖先の恩に報いることができるかどうかは、汝ら軍人がその職分を尽くすかどうかにかかっている。わが国の威信が振るわないことがあれば、汝らはよく朕と憂いをともにせよ。わが武威が揚がりその栄光が輝くならば、朕は汝らとともにその誉れを分かち合うべし。汝ら皆がその職分を守り、朕と心を一つにして国家の防衛に力を尽くすならば、わが国の民は永く太平の幸せを受け、わが国の威烈は大いに世界の光栄ともなるであろう。
朕がかくも深く汝ら軍人に望むからには、なお訓諭すべきことがある。いざこれを左に述べよう。
第一条 忠節(現代語訳)
一、軍人は忠節を尽くすことを本分とすべきである。そもそもわが国に生を受けた者で、誰が国に報いる心がないことがあろうか。まして軍人となる者は、この心が固くなければ物の役に立つとは思われない。軍人にして報国の心が堅固でないならば、いかに技量に練達し学術に優れていても、なお木偶(でく)人形にひとしいのだ。隊伍が整い規律が正しくとも、忠節のない軍隊は有事に際して烏合の衆と変わらない。国家を守護し国権を維持するのは兵力によるのであるから、兵力の強弱はすなわち国運の盛衰であることをわきまえよ。世論に惑わず、政治に関わることなく、ただ一途に己の本分たる忠節を守り、義務は山より重く死は羽毛より軽いと覚悟せよ。その志操を破り、不覚をとって汚名を受けることのないように。
第二条 礼儀(現代語訳)
一、軍人は礼儀を正しくすべきである。そもそも軍人には上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職の階級があって統制に属するだけでなく、同列・同級でも年次に新旧があれば、新任の者は旧任の者に服従すべきものだ。下級の者が上官の命令を受けることは、実は直に朕の命令を受けると同義と心得よ。自己の所属するところでなくとも、上級の者はもちろん年次が己より古い者に対しては、すべて敬礼を尽くすべし。また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮・驕傲(きょうごう)の振るまいがあってはならぬ。公務のために威厳を主とする時は別として、それ以外は努めて親切に扱い、慈愛をもっぱらに心がけ、上下が一致して公務に勤めよ。もし軍人たる者が礼儀を乱し、上を敬わず下をいたわらず、一致団結を失うならば、ただ軍隊の害毒であるのみか、国家のためにも許しがたき罪人である。
第三条 武勇(現代語訳)
一、軍人は武勇を尊ぶべきである。そもそも武勇はわが国において古より尊ばれてきたところであるから、わが国の臣民たる者、武勇がなくては叶わない。まして軍人は戦に臨み敵に当たる職であるから、片時も武勇を忘れてよいはずがない。しかし武勇には大勇と小勇があり同じではない。血気にはやり粗暴な振るまいをするなどは武勇とはいえぬ。軍人たる者は常によく義理をわきまえ、胆力を練り、思慮を尽くして事を謀るべきである。小敵でも侮らず、大敵でも恐れず、己の武人の職分を尽くすことこそが真の大勇である。武勇を尊ぶ者は、常日頃、人に接するには温和を第一とし、諸人の愛敬を得るよう心がけよ。いわれなく蛮勇を好み猛威を振るうならば、果ては世人も忌み嫌って野獣のごとく思うであろう。心すべきことである。
第四条 信義(現代語訳)
一、軍人は信義を重んずべきである。そもそも信義を守ることは常識ではあるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日も隊伍の中に交わっていることが難しい。信とは己の言葉を実行し、義とは己の義理を尽くすことをいう。したがって信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が成しうるか成しえないかを慎重に思考すべきである。曖昧なことを気軽に承諾していわれなき関係を結び、後になって信義を立てようとすれば進退窮まって身の置き所に苦しむことがある。悔やんでも役に立たない。はじめによくよく事の順逆をわきまえ、理非を考え、その言葉は結局守れぬもの、その義理はとても尽くせぬものと悟ったならば、速やかに思いとどまるがよい。古より、あるいは小さな信義を貫こうとして大局の正逆を誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が禍に遭って身を滅ぼし、死後も汚名を後世に残した例は少なくない。深く警戒しなくてはならぬ。
第五条 質素(現代語訳)
一、軍人は質素を旨とすべきである。およそ質素を心がけなければ、文弱に流れ軽薄に走り、奢侈(しゃし)華美の風を好み、ついには汚職に陥って志も賤しくなり、節操も武勇も甲斐なく、世人から爪はじきされるまでになるのだ。その身の生涯の不幸というも愚かというほかない。この風潮がひとたび軍人の間に起これば、伝染病のごとく蔓延し、武人の気風も兵の意気もたちまち衰えることは明らかである。朕は深くこれを懼れ、先に免黜条例を施行してこの点を戒めておいたが、なおこの悪習が出ることを憂いて心が安まらないため、再びこれを訓示するのだ。汝ら軍人よ、この訓誡を等閑(なおざり)に思うことのないように。
後文(現代語訳)
右の五か条は、軍人たる者が片時もおろそかにしてはならない。さてこれを行うには、一つの誠心こそが大切である。そもそもこの五か条はわが軍人の精神であり、一つの誠心はまた五か条の精神でもある。心に誠がなければ、いかに立派な言葉も善き行いもすべて上べの装飾で何の役に立とうか。心に誠さえあれば何事も成し遂げられるものだ。まして、この五か条は天地の大道であり人倫の常識である。行いやすく守りやすいものだ。汝ら軍人がよく朕の訓えに従い、この道を守り実行し、国に報いる務めを尽くすならば、日本国の民がこぞってこれを喜ぶであろう。朕一人の喜びにとどまらないだろう。
明治十五年一月四日
御名
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五箇条の要点一覧
| 条 | 徳目 | 核心となるフレーズ(原文) | 主な内容 |
|---|---|---|---|
| 第一条 | 忠節 | 「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し」 | 天皇への絶対的忠誠。世論・政治に惑わない軍人の本分 |
| 第二条 | 礼儀 | 「下級のものは上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」 | 階級・年次の秩序厳守。上官の命令は天皇の命令と同義 |
| 第三条 | 武勇 | 「小敵たりとも侮らず大敵たりとも懼れず己が武職を尽くさむこそ誠の大勇」 | 血気にはやる小勇でなく、思慮と胆力を備えた大勇を尊ぶ |
| 第四条 | 信義 | 「小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り……例尠からぬものを深く警めよ」 | 言葉と義理を守る。ただし私情の義理で大義を誤るな |
| 第五条 | 質素 | 「此風一たび軍人の間に起こりては伝染病の如く蔓延し士風も平気も頓に衰ふ」 | 奢侈・汚職への厳しい戒め。質素こそ武人の心がけ |
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軍人勅諭が歴史に与えた影響
軍人勅諭は、発布から66年後の1948年(昭和23年)まで効力を持ち続けました。陸軍では将兵に全文暗誦が課され、軍の精神教育の根幹とされました。
最も大きな歴史的問題は、「統帥権の独立」への影響です。軍人勅諭は太政官を経ずに天皇が直接軍に下した形式を採りました。後に制定された大日本帝国憲法(1889年)の第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」と合わせて、「軍は政府・議会の管轄外にある」という解釈が強まりました。政府が海軍の軍縮条約に調印したことを「統帥権の干犯(かんぱん)だ」と批判した1930年のロンドン海軍軍縮条約問題はその典型です。
「政治に関わるな」と命じた軍人勅諭が、逆に「政府は軍に関与できない」という論理に転化されていく——歴史の皮肉が、近代日本の軍国主義化の遠因の一つとなりました。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などとともに衆参両院の決議により失効が確認されました。
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