国学者「荷田春満」はどんな人?代表作や思想をわかりやすく解説

日本の古典や歴史に興味がある方なら、「国学」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。国学とは、日本古来の文化や精神を学び直そうとする学問です。その国学の創始者の一人が「荷田春満(かだのあずままろ)」です。
この記事では、荷田春満がどのような人物だったのか、代表作や思想、さらにゆかりの地についてもわかりやすく解説します。

荷田春満とはどんな人?プロフィールを紹介

名前 荷田 春満(かだ の あずままろ)
生誕 1669年(寛文9年)
没年 1736年(元文元年)
出身地 山城国伏見(現在の京都府京都市伏見区)
職業 国学者
別称 荷田東丸、賀茂東丸

国学の始祖と呼ばれる理由

荷田春満は、江戸時代中期に活躍した国学者で、日本古来の精神や文化を大切にする「国学」という学問の基礎を築きました。
特に、万葉集や古事記など、日本最古の文学や歴史書の研究を進め、それまで主流だった漢学や仏教とは異なる、日本独自の学問体系を目指しました。

「国学四大人(しこくたいじん)」と呼ばれる4人の国学者(荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤)のうち、最初にその道を切り開いた人物です。

荷田春満の思想と特徴をわかりやすく解説

「古道(こどう)」への回帰

春満は、日本古来の文化や価値観を大切にし、「古道」と呼ばれる日本の古代の思想や風習を重視しました。
これは、外来の学問(漢学や仏教など)によって曇ってしまった日本人の本来の精神を取り戻すことが目的でした。

「漢意(からごころ)」を排する

春満は、日本人が中国から伝わった思想や文化に過度に依存していることを批判し、「漢意(からごころ)」を排し、日本の「やまとごころ」を大切にすべきだと説きました。
この考えは、後の賀茂真淵や本居宣長の思想にも大きな影響を与えています。

『万葉集』の研究

春満は、特に『万葉集』の研究に力を注ぎました。万葉集は、日本最古の歌集であり、日本人の感情や価値観が色濃く表れています。春満は、そこから古代日本人の精神を学び直そうと考えたのです。

荷田春満の代表作

荷田春満は、さまざまな著作を残しました。特に有名なものを紹介します。

① 『創学校啓(そうがっこうけい)』

・朝廷に学校を設立するよう提言した意見書です。
・日本人としての学問の重要性を説き、日本古来の文化の学びを広めようとしました。

② 『賀茂別雷命神社記(かもわけいかづちのみことじんじゃき)』

・賀茂神社(現在の京都・上賀茂神社)の由緒や歴史をまとめた書物。
・神道や日本の神話の理解を深める上でも重要な資料とされています。

③ 『万葉集古義(まんようしゅうこぎ)』

・『万葉集』の注釈書で、万葉の歌の解釈を行ったもの。
・その後の万葉研究に多大な影響を与えました。

荷田春満の旧宅と墓を訪ねてみよう

荷田春満旧宅跡

荷田春満の旧宅跡は、現在の京都市伏見区、伏見稲荷大社の近くにあります。
伏見稲荷大社の神官の家系に生まれた春満は、この地で国学研究に励んでいました。
旧宅は現存していませんが、書院と門などが残っていることと、石碑が建てられており、春満の功績をしのぶことができます。

【所在地】
京都府京都市伏見区深草 (伏見稲荷大社内東丸神社前)
※伏見稲荷大社を訪れる際に立ち寄るのもおすすめです。

墓所(荷田春満の墓)

春満の墓は、京都市東山区の泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭・戒光寺(かいこうじ)にあります。
静かな寺院の中にひっそりと佇んでおり、春満を偲ぶことができます。

【所在地】
京都府京都市東山区泉涌寺山内町29(戒光寺内)
※戒光寺は、巨大な丈六仏(釈迦如来立像)で有名なお寺でもあります。

まとめ|荷田春満は「日本を学び直す」国学の始祖

荷田春満は、日本古来の文化や精神を重んじ、「やまとごころ」を取り戻そうとした国学の開拓者です。
その思想や研究は、後の賀茂真淵や本居宣長たちへと受け継がれ、日本人のアイデンティティに大きな影響を与えました。

京都・伏見や東山には、春満ゆかりの地が今も残されています。
ぜひ、日本文化の原点に触れる旅をしてみてはいかがでしょうか。