尊王攘夷とは?攘夷派が最も早く開国派になった理由|年表で追う幕末の逆転

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尊王攘夷を叫んだ人々が、その後の日本で開国と近代化を主導しました。
長州は下関で四国の艦隊に砲撃されて完敗し、薩摩は薩英戦争で鹿児島を焼かれました。その両藩が、負けた相手であるイギリスに接近していきます。明治政府の中核を担ったのは、外国人を追い払えと最も激しく主張していた勢力でした。
なぜこの逆転が起きたのか。このページでは、尊王と攘夷という2つの言葉の中身を分けたうえで、年表で流れを追い、攘夷が放棄された瞬間までをたどります。
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尊王攘夷とは
尊王攘夷は、性格の違う2つの主張をつなげた言葉です。分けて見ると理解しやすくなります。
| 語 | 読み | 意味 | 出どころ |
|---|---|---|---|
| 尊王 | そんのう | 天皇を尊ぶこと | 中国の春秋時代の大義名分論、水戸学、国学 |
| 攘夷 | じょうい | 外国勢力を追い払うこと | 中国の華夷思想 |
もとは中国の「尊王攘夷」という語で、周王を尊び異民族を退けるという意味でした。これが日本で読み替えられ、天皇を尊び西洋を退けるという主張になります。
「尊皇」と書くこともあります。意味は同じで、表記の違いです。
2つは本来セットではありません
ここを押さえておくと、幕末の動きが追いやすくなります。
天皇を尊ぶことと、外国を追い払うことは、論理的につながっていません。尊王だけを主張して開国を認めることもできますし、実際に後半はそうなります。この2つが一時期くっついていたのは、幕府が朝廷の許可なく条約を結んだという事情があったからです。
幕府が勅許を得ずに開国した。だから幕府を批判する論拠として、天皇を立てることと外国を退けることが同時に使えた。言い換えれば、尊王攘夷は幕府を攻めるための組み合わせでした。
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思想的な背景
| 思想 | 内容 | 尊王攘夷への影響 |
|---|---|---|
| 朱子学 | 幕府が官学とした儒学。大義名分を重んじます | 君臣の名分を正すという論理を与えました |
| 水戸学 | 水戸藩で発達した学問。『大日本史』の編纂に始まります | 会沢正志斎の『新論』が尊王攘夷論を体系化しました |
| 国学 | 古典から日本古来の心を明らかにする学問 | 天皇を中心とする国の姿を示しました |
| 陽明学 | 知と行を一致させることを説きます | 行動に移すことを正当化する論理になりました |

注目したいのは、幕府が自ら官学とした朱子学から、幕府を倒す論理が出てきたことです。大義名分を正せという教えを突き詰めると、本来の君は天皇であり将軍はその臣下だという結論に行き着きます。幕府は自分を支える学問に足をすくわれました。

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年表で見る尊王攘夷
| 年 | できごと | 意味 |
|---|---|---|
| 1825 | 会沢正志斎が『新論』を著します | 尊王攘夷論が体系化されます |
| 1853 | ペリーが浦賀に来航します | 開国を迫られ、幕府が朝廷に意見を求めます |
| 1854 | 日米和親条約を結びます | 200年余りの鎖国が終わります |
| 1858 | 日米修好通商条約を勅許なしで結びます | 朝廷の許可を得なかったことが批判の的になります |
| 1858 | 安政の大獄が始まります | 吉田松陰らが処刑され、反発が強まります |
| 1860 | 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されます | 幕府の権威が大きく傷つきます |
| 1863 | 長州が下関で外国船を砲撃します | 攘夷を実行に移します |
| 1863 | 薩英戦争が起こります | 薩摩が鹿児島を砲撃され、西洋の実力を知ります |
| 1863 | 八月十八日の政変 | 長州が京都から追われます |
| 1864 | 禁門の変。四国連合艦隊が下関を攻撃します | 長州が攘夷の不可能を思い知ります |
| 1866 | 薩長同盟が結ばれます | 攘夷から倒幕へ目標が移ります |
| 1867 | 大政奉還、王政復古の大号令 | 幕府が終わります |
| 1868 | 明治政府が開国和親の方針を示します | 攘夷は正式に放棄されます |
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攘夷を実行して、負けた
この物語の転回点は1863年から1864年にあります。
下関での砲撃と報復
1863年、長州藩は朝廷が定めた攘夷の期日に従い、下関海峡を通る外国船を砲撃しました。言葉だけだった攘夷を、実際にやってみたわけです。
報復は翌年に来ました。イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が下関を攻撃し、砲台は破壊され占領されます。長州の大砲は、艦隊の射程にまったく届きませんでした。
薩英戦争
同じ1863年、薩摩藩はイギリス艦隊と戦いました。生麦事件の賠償をめぐる衝突です。鹿児島の市街地が砲撃を受け、大きな被害が出ました。
薩摩はこの戦いで善戦したとも言われますが、結果として藩が得た結論は明確でした。西洋の軍事力には勝てない、ということです。
負けた相手と手を結ぶ
両藩の対応は、驚くほど素早いものでした。
| 藩 | 敗戦の経験 | その後の動き |
|---|---|---|
| 長州 | 四国連合艦隊に下関を制圧されます | 武器を買い入れ、軍制を西洋式に改めます |
| 薩摩 | 薩英戦争で鹿児島を砲撃されます | イギリスに接近し、留学生を送ります |
追い払うべき相手から武器を買い、その国に若者を留学させる。攘夷を唱えていた側が、最も早く西洋化に踏み切りました。
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なぜ最も激しい攘夷派が、最も早い開国派になったのか
筆者はここに、尊王攘夷という運動の本質が表れていると思います。
理由は3つに整理できます。
1つめは、実際に戦ったからです。攘夷を口で唱えるだけの者は、力の差を測れません。砲撃を受けた側だけが、どれほどの差があるのかを数字で知りました。
2つめは、目的が入れ替わったことです。攘夷は本来、国を守るための手段でした。国を守るためには、追い払うより学んで強くなるほうが早いと分かった時点で、手段を変えるのは筋が通っています。手段に固執しなかったということです。
3つめは、尊王のほうは放棄されなかったことです。攘夷は捨てられましたが、天皇を中心に国をまとめるという枠組みは残り、明治政府の土台になりました。2つがもともと別の主張だったからこそ、片方だけを捨てることができた。
幕府が倒れたのは、攘夷ができなかったからではありません。朝廷の許可なく条約を結んだという一点が最後まで効き続け、尊王の論理が幕府を追い詰めました。
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その後に残ったもの
攘夷は放棄されましたが、この時期に生まれたものは明治以降に受け継がれます。
| 残ったもの | 内容 |
|---|---|
| 天皇を中心とする国家像 | 尊王の論理が明治国家の枠組みになります |
| 国学と神道の重視 | 神仏分離と廃仏毀釈につながります |
| 戦死者を祀る施設 | 幕末の招魂社が、靖国神社や護国神社へ続きます |
| 西洋に学ぶ姿勢 | 敗戦の経験から生まれた現実主義です |


幕末に命を落とした志士たちを祀るために作られたのが招魂社で、これが後の靖国神社につながります。尊王攘夷の運動は、思想としては終わりましたが、戦死者をどう祀るかという形で制度に残りました。

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よくある質問
尊王攘夷とはどういう意味ですか
天皇を尊び、外国勢力を追い払うという主張です。もとは中国の語で、周王を尊び異民族を退けることを指しました。
「尊王」と「尊皇」はどちらが正しいのですか
どちらも使われます。意味の違いはなく、表記の違いです。
なぜ幕府が批判されたのですか
1858年の日米修好通商条約を、朝廷の許可を得ずに結んだためです。この一点が、尊王と攘夷を結びつける根拠になりました。
攘夷は実行されたのですか
されました。1863年に長州が下関で外国船を砲撃し、翌年に四国連合艦隊の報復を受けて砲台を失いました。同じ年に薩摩も薩英戦争を経験しています。
攘夷はいつ放棄されたのですか
実質的には1864年の敗戦以降、方針として固まるのは1868年の明治政府による開国和親の表明です。
中心になった人物は誰ですか
思想面では会沢正志斎や吉田松陰、行動面では高杉晋作、久坂玄瑞、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、岩倉具視らが挙げられます。
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まとめ
尊王攘夷は、性格の違う2つの主張を組み合わせた言葉でした。幕府が勅許なく条約を結んだという一点が、この2つを結びつけました。
そして攘夷は、実行された結果として捨てられます。下関と鹿児島で砲撃を受けた長州と薩摩が、最も早く西洋式の軍備に切り替え、留学生を送り出しました。追い払うべき相手から学ぶという転換を、いちばん激しく攘夷を唱えた側が行ったのです。
残ったのは尊王のほうでした。2つが別の主張だったからこそ、片方を捨ててもう片方を国の枠組みにできた。幕末を読むとき、尊王攘夷を1つの言葉として扱わずに分けて見ると、この時代の動きがずっと見通しやすくなります。







