水神祭とは?読み方と祀る水の神|隅田川花火大会の起源は作られた伝承なのか

水神祭とは?読み方と祀る水の神|隅田川花火大会の起源は作られた伝承なのか

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祓え給い、清め給え

水神祭(すいじんさい)を調べると、性格のまったく違う三つのものが出てきます。川沿いや漁港で今も続く祭り、隅田川花火大会の起源として語られる江戸の行事、そしてボートレースで初優勝した選手を水に迎え入れる慣習です。

この記事では三つを分けて整理したうえで、江戸の水神祭についてよく書かれている説明のうち、史料の上では成り立たない二つを示します。流行した病をコレラとする説明と、「水神祭」という名前が江戸時代からあったという前提です。

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水神祭と呼ばれる三つのもの

同じ言葉で呼ばれていても、担い手も目的も別です。まず全体を見分けておくと、調べたいものにたどり着きやすくなります。

呼ばれているもの場所内容
地域の水神祭川沿いの集落、漁港水の恵みへの感謝と水難除けを願う祭り。今も各地で続いています
江戸の水神祭隅田川の両国1733年の川開きで行われたと伝わる行事。隅田川花火大会の起源として語られます
ボートレースの水神祭各地の競走場初優勝した選手を水に入れて祝う慣習の呼び名です

このうち神道の祭りとして筋をたどれるのは、はじめの二つです。三つめは言葉だけを借りた現代の慣習なので、最後に別の節で触れます。

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水神とはどの神様か

水神は特定の一柱を指す呼び名ではない。川、井戸、用水、海と、水のある場所それぞれに祀られてきた神々をまとめて呼ぶ言い方です。

記紀にあらわれる水の神でよく挙げられるのは、罔象女神(みつはのめのかみ)です。イザナミが火の神を生んで苦しんだときに生まれた神で、田に引く水や井戸の水をつかさどる女神とされます。海の側には大綿津見神(おおわたつみのかみ)がいて、河口や漁の安全に結びつけられてきました。

農村では用水の取り入れ口、町では井戸の端、漁村では船着き場が、水神を祀る場所になりました。水は暮らしを支える一方で、日照りと洪水という正反対の災いをもたらします。感謝と畏れが同じ神に向けられるのは、このためです。

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水神祭では何をするのか

やることは土地によって違いますが、骨組みはおおむね共通しています。

段取り内容
場を整える水辺や井戸端を掃き、幣(へい)を立てて注連縄を張ります
供える米、酒、塩、水、その土地で獲れたものを供えます。漁村では初物の魚を供える例があります
祈る水の恵みへの感謝と、水難や日照りが起きないことを願います
分かち合う供えたものを下げて参加者で分け、直会(なおらい)とします

いま関東でよく知られているのは、千葉県市川市の湊にある湊水神宮の水神祭です。地元の漁業者が豊漁と海の安全を願って続けてきた祭りで、毎年6月の下旬に行われ、川沿いの遊歩道に露店が並びます。東京メトロ東西線の行徳駅から歩いて行ける場所にあるため、行徳の水神祭りとも呼ばれます。

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江戸の水神祭と隅田川の花火

江戸の水神祭が知られているのは、隅田川花火大会の起源として語り継がれてきたからです。広く伝えられている筋立ては次のようになります。

年できごと
1731年(享保16年)年末から天候が崩れはじめます
1732年(享保17年)西日本でイナゴやウンカによる虫害と冷害が重なり、大規模な飢饉となります。徳川実紀は死者を約97万人と記し、餓死者を1万2千人とする数字も伝わります
1733年(享保18年)西日本へ米を回したことで江戸の米価が跳ね上がり、江戸で最初といわれる打ちこわしが起きます
1733年5月28日両国の川開きで花火が打ち上げられたと伝わります。これが隅田川花火大会の起源とされてきました

墨田区や台東区の郷土資料は、この川開きの目的を飢饉と病による死者の供養、そして災厄を退ける祈願だと説明しています。幕府が水神祭と川施餓鬼(かわせがき)を行い、両国橋のたもとの料理屋が花火を献じたという伝えもあります。

当時の隅田川は大川とも呼ばれ、古典落語にもその名で出てきます。川開きは、その大川で夏のあいだ夕涼みの船を出してよいとする解禁の日でした。

川施餓鬼は川で亡くなった人や供養する者のいない死者のために、水辺で経をあげて供物を流す仏事です。盆の行事として各地で行われてきました。祈りの対象が祖霊から無縁の死者へ広がっていく点で、盂蘭盆会と地続きの行事です。

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流行した病をコレラとする説明は成り立たない

ここが、この記事でいちばん正しておきたい点です。享保の飢饉を説明する文章では、このとき江戸に「コレラのような伝染病」が広まったと書かれることがあります。これは年代が合いません。

できごと年
享保の飢饉1732年(享保17年)
日本で最初のコレラの流行1822年(文政5年)
江戸を襲ったコレラの大流行1858年(安政5年)

コレラが日本に入ったのは1822年、長崎に着いた船が持ち込んだものとされます。享保の飢饉の90年ほど後のことです。江戸が本格的な被害を受けたのはさらに後の1858年で、このときは江戸だけで20数万人が亡くなったと伝えられ、三日で命を落とすという意味の「三日コロリ」、あるいは虎列刺(コレラ)、虎狼痢(ころり)と書かれて恐れられました。

では享保のとき江戸で何が流行したのか。ここは慎重に見ておきたいところです。飢饉そのものは西日本が中心で、江戸では米価の騰貴と打ちこわしが記録に残ります。郷土資料が供養の対象として挙げる「疫病」の中身を、具体的な病名まで特定できる史料は見当たりません。病名を当てはめて説明を分かりやすくすることは、ここではしないでおきます。

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「水神祭」という名前は江戸の記録に出てこない

もうひとつ押さえておきたいのは、1733年の川開きを水神祭と結びつける説明そのものが、後の時代に整えられた可能性が高いという指摘です。

根拠として挙げられるのは、次の二点です。ひとつは、享保18年の川開きと死者供養を結びつけて書いた文章が、確認できるかぎり1907年(明治40年)の清水晴風によるものだという点。もうひとつは、「水神祭」という語そのものが、大正期より前の文献に見あたらないという点です。江戸時代の記録には、この結びつきが書かれていません。

つまり、川開きと花火が1733年に始まったという大枠は広く伝えられているものの、吉宗が慰霊のために命じたという動機づけと、それを水神祭と呼ぶ言い方は、明治から大正にかけて語られるようになった筋立てだと考えられます。日本語版ウィキペディアがこれを「創られた伝承」として扱っているのも、この経緯によります。

伝承が後から整えられたとしても、川開きが江戸の夏の節目だったことや、水辺で死者を供養する習わしがあったことは変わりません。ただ、何が同時代の記録で、何が後の説明なのかは、分けて知っておきたいところです。

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たまやとかぎやの掛け声は1733年にはまだなかった

花火といえば「たまや」「かぎや」の掛け声ですが、この二軒が競い合ったのは、川開きが始まったとされる年よりずっと後のことです。

年できごと
1659年(万治2年)鍵屋の初代弥兵衛が大和から江戸へ出て、葦の管に火薬を詰めた花火を売りはじめます
1733年(享保18年)両国の川開きで花火が打ち上げられたと伝わります
1808年(文化5年)鍵屋からのれん分けした玉屋が創業し、二軒が競うようになります
1843年(天保14年)玉屋が火事を出して江戸を追われ、鍵屋だけが残ります

玉屋が生まれたのは川開きの75年後です。上流を玉屋、下流を鍵屋が担い、見物人が贔屓の屋号を呼んだという光景は、19世紀前半の35年ほどのあいだのものでした。それが掛け声として今も残っているわけです。

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中断と復活の歴史

両国の川開きは明治から昭和にかけて何度も途切れています。戦争の時期には空襲の危険と資材の不足で開けませんでした。

戦後に再開したものの、1961年(昭和36年)を最後に休止します。理由は花火そのものではなく、川沿いの激しい渋滞と、汚れた隅田川の臭気でした。高度経済成長が川を変えてしまったわけです。

復活は1978年(昭和53年)です。水質の改善と護岸の整備が進み、地元の働きかけもあって「隅田川花火大会」という新しい名前で再開しました。打ち上げ場所は安全のため上流へ移され、第一会場と第二会場の二か所に分かれています。花火師が腕を競うコンクール形式も、復活後の形です。現在は毎年7月の末に開かれ、100万人近い人が訪れます。

名前が変わった時期と、水神祭という語が広まった時期を重ねてみると、呼び名は時代ごとに付け替えられてきたことが分かります。

ボートレースの「水神祭」は別の意味

検索で「水神祭」と調べる人のうち、かなりの割合はボートレースの話を探しています。初優勝した選手が水に入れられて祝われる慣習の呼び名で、祭りの日程や神事とは関係がありません。

なぜ水神祭と呼ぶのかについて、由来を記した確かな資料は見あたりません。水の上で競う競技なので、水に身を浸すことが節目の通過儀礼のように受け取られたのだろうと説明されることはありますが、裏付けのある話としては扱えません。この記事で扱えるのはここまでです。

筆者の考察

隅田川花火大会の起源をめぐる話で、私がいちばん面白いと思うのは、伝承が後から作られたという指摘のほうです。

ふつうに考えれば、祈りとして始まったものが時代とともに娯楽に変わっていく、という筋書きになります。実際そう書かれた解説は多いです。ところが史料を追うと、順序が逆だった可能性が出てきます。もともと夏の遊びとして定着していた川開きの花火に、明治から大正にかけて慰霊という由来が与えられた、という順序です。

これは由来が嘘だったという話ではないと思います。むしろ、人は楽しみに意味を欲しがるということの表れに見えます。ただ火が上がって散るだけの光に、死者を送る意味を重ねたい気持ちが、近代の都市に生まれたのでしょう。日露戦争の後、関東大震災の前という時期に、この物語が整えられていったことには、何かしらの必然があったのではないでしょうか。

水神という神様の性格にも似たところがあります。水はただの資源であって、恵みも災いもその場の条件にすぎません。それを、感謝すべき相手と、怒らせてはならない相手として人格を与えてきたのが水神信仰です。意味のない現象に意味を結びつけるという働きは、神を祀ることと、花火に由来を与えることとで、そう遠くないのだろうと考えています。

よくある質問

水神祭の読み方は何ですか

一般には「すいじんさい」と読みます。地域の祭りとしては「すいじんまつり」「水神様(すいじんさま)のお祭り」と呼ばれることもあります。

水神祭は誰が始めたのですか

水の神を祀る習わしは各地で別々に育ったもので、始めた人は特定できません。隅田川の水神祭については、八代将軍徳川吉宗が命じたと語られますが、これを裏付ける同時代の記録は確認されていません。

水神祭はいつ行われますか

土地ごとに違います。川や田の水を使い始める前、あるいは漁の季節の節目に行われることが多く、市川市の湊水神宮では6月の下旬に行われています。

隅田川花火大会は水神祭と関係があるのですか

起源として語り継がれてはいますが、江戸時代の記録に両者を結びつける記述はありません。水神祭という語が文献に見えるようになるのは大正期以降です。

川施餓鬼と水神祭は同じものですか

別の行事です。川施餓鬼は供養する者のいない死者を水辺で弔う仏事で、水神祭は水の神に祈る神道の祭りです。1733年の両国では、この二つが続けて行われたと伝えられています。

ボートレースの水神祭とは何ですか

初優勝した選手を水に入れて祝う慣習です。神事ではなく、由来を記した確かな資料も見あたりません。

まとめ

水神祭という言葉は地域の祭り、江戸の行事、現代の慣習という三つの層に分かれています。

このうち江戸の水神祭については、飢饉と病の死者を供養する祈りから花火が始まったという物語が広く知られています。ただし流行した病をコレラとする説明は年代が合わず、「水神祭」という名前も江戸の記録には見あたりません。由来の多くは明治から大正にかけて整えられたものだと考えられます。

それでも、水辺に集まって亡くなった人を思い、水の神に安全を願ってきた習わしは、各地に実際に残っています。夜空に上がる光を見上げるとき、その背後にどんな説明が重ねられてきたのかを知っておくと、見え方が少し変わるはずです。

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祓え給い、清め給え

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この記事を書いた人

日本神話と歴史
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