
道端や神社・お寺の境内で、見慣れない石塔を見かけたことはないでしょうか。青い顔をした怒りの形相の像が彫られていたり、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三匹の猿が刻まれていたり、あるいは「庚申」とだけ文字が刻まれていたりする石塔——それが「庚申塔(こうしんとう)」です。
一見するとただの古い石造物ですが、庚申塔の成り立ちをたどると、道教・仏教・神道・陰陽五行説が複雑に絡み合った、日本人の信仰と世界観の深層が見えてきます。「体の中に虫が棲んでいて、寝ている間に天に昇って罪を報告する」という少し怖い話から始まる庚申信仰の全貌を、本記事でひもといていきます。
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庚申塔とは何か

庚申塔は、「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔です。
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
沖縄を除く全国各地に分布しており、道端・辻・村の境・寺社の境内などに今も数多く残っています。江戸時代に最も盛んに建てられ、庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。
庚申塔を理解するには、まず「庚申」という言葉の意味と、その根底にある信仰を知る必要があります。
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「庚申」とは何か——干支と陰陽五行の交点
「庚申(こうしん・かのえさる)」とは、干支(えと)の組み合わせのひとつです。
日本で一般に「干支」といえば子・丑・寅……という十二支を指しますが、本来の干支は「十干(じっかん)」と「十二支」を組み合わせた60通りの周期を指します。
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類。陰陽五行説において、それぞれが木・火・土・金・水の五行と陰陽に対応しています。「庚(かのえ)」は五行の「金(こん)」の陽にあたります。
十二支の「申(さる)」は、五行では「金」に属し、方角では「西南西」、時刻では現在の午後3〜5時ごろ、季節では晩夏(旧暦7月)を指します。
十干の「庚」と十二支の「申」はともに五行の「金」に属するため、「庚申」の日は金の気が二重に重なる特別な日とされました。この「金気が極まる日」という性質が、庚申信仰の土台となる重要な要素のひとつです。
60日に一度巡ってくる庚申の日——その夜に何が起きるとされていたのか。ここに庚申信仰の核心があります。
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三尸虫(さんしちゅう)、体の中に棲む怖い虫の話
庚申信仰の出発点は、道教の「三尸説(さんしせつ)」です。
道教では、三尸(さんし)の虫という三匹(上尸・中尸・下尸)の虫が人間の体内に住んでおり、庚申の日の夜に、睡眠中の人の体から抜け出てその人の罪を天帝に密告するといわれ、密告された人の寿命が縮むと信じられています。
三尸虫は人の体内の三か所——頭・腹・足——にそれぞれ一匹ずつ宿っているとされます。この虫の恐ろしいところは、その人の過去の悪行をすべて知っており、眠っている隙に体から抜け出して天帝のもとへ報告に行くという点です。報告を受けた天帝はその人の寿命を縮める、あるいは地獄へ落とすと信じられていました。
三尸虫が動けるのは、宿主が眠っている間だけです。ならば眠らなければよい——そこから「庚申の夜は一晩中起きていて三尸虫を体から出さない」という実践が生まれました。これが「庚申待(こうしんまち)」の原点です。
上尸は頭部に宿り人に名誉欲をもたらす、中尸は腹部に宿り食欲や色欲をもたらす、下尸は足部に宿り怒りや嫉妬をもたらすとされました。三尸虫は人の欲や悪を体内から煽る存在でもあったのです。
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庚申待(こうしんまち)とはどんな集まりだったか
庚申待とは、庚申の夜に近隣の人々が集まり、夜通し起きて過ごす集会です。
この習俗は平安時代に我が国に伝わって来て、江戸時代に全盛となり、明治になってからもなお行われていた。本来は、この夜は眠らないで身を慎み、夜通し青面金剛をお祭りすべきなのだが、いつしか、夜通し飲み食いして騒ぐ風習に変わっていった。
身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。
3年間・18回(60日×18=1080日、約3年)の庚申待を続けたことを記念し、参加者の名前を刻んで建てたのが庚申塔です。塔は単なる信仰の産物ではなく、村や地域のコミュニティが形成され、維持されてきた証でもありました。
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青面金剛とは何か——怖い姿に込められた意味

庚申塔に最もよく彫られているのが「青面金剛(しょうめんこんごう)」です。青い顔・憤怒の形相・六本の腕・邪鬼を踏みつける足——初めて見ると、その異形の姿に驚く人も少なくないでしょう。
青面金剛(しょうめんこんごう)は、日本仏教における信仰対象の1つ。インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる。
その成り立ちは興味深いものです。唐の時代、インド密教の「マハーカーラ」の姿が、説明抜きで絵図だけ一人歩きして中国に伝わり、ドクロの首飾りや蛇を巻き付けた怖しい姿から病気を流行らせる悪鬼と誤伝されて、「青面金剛」と命名されて病気平癒祈祷用に使われた。
つまり青面金剛は、インド密教の大神が中国に伝わる過程で「誤解」されて生まれた独自の尊格であり、道教の三尸信仰と結びついて日本で庚申信仰の本尊として定着した——という、いくつもの文化が重なり合ってできた存在なのです。
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青面金剛の姿に込められた意味
典型的な青面金剛像の姿は次の通りです。
青い身体と顔
病魔や邪気を制する力の象徴。「青」は五行の木気に通じ、生命力と魔除けを意味する色でもあります。
六本の腕
右手に剣・三叉矛・矢、左手にショケラ(後述)・法輪・弓を持つのが典型的な形です。複数の武器を持つ姿は、あらゆる方向から来る邪気を防ぐ力を示しています。
頭上の髑髏と蛇
像は忿怒相で、頭上に髑髏を乗せ、六臂(腕六本)である。髑髏は死と再生の象徴であり、頭に蛇を巻き付ける姿は、毒や病を制する力を表します。
邪鬼を踏みつける足
二匹の邪鬼を足で踏み伏せる姿は、悪を制圧し人々を守る力の象徴です。邪鬼は三尸虫の化身とも解釈されます。
ショケラ(上半身裸の女性像)
左手で女性の髪をつかんでいる姿が見られることがあります。左手でショケラと呼ぶ上半身裸の女人の髪をつかみ、右手には剣を握る動的な姿で表されます。ショケラは罪を犯した人間の魂、あるいは人の欲望の象徴とされ、それを青面金剛が制している姿と解釈されます。
日月
像の上部には日(太陽)と月が彫られることが多く、昼夜を問わない庚申信仰の守護を表しています。
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三猿(みざる・きかざる・いわざる)の本当の意味
庚申塔に三猿が彫られる理由は、単なる「悪いことを見ない・聞かない・言わない」という教訓ではありません。
申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。
三猿が庚申塔に彫られる理由は主に二つあります。
ひとつ目は、三尸虫の象徴として。
三尸虫は体の三か所に宿り、目・耳・口を通じて人の悪行を観察するとされていました。三猿が目・耳・口をふさいでいる姿は、三尸虫の「見る・聞く・言う」という告発の機能を封じるという意味を持ちます。悪行を天帝に報告させないための「封印」として機能しているのです。
ふたつ目は、干支の象徴として。
庚申の「申」は猿に通じます。猿は庚申信仰における神聖な使いとされ、もともと猿が庚申の使いとされ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をもってその神体とした庚申堂もあった。
日光東照宮の三猿が有名ですが、あの三猿もこの庚申信仰と深く結びついています。「見ざる・聞かざる・言わざる」という教訓は、もともとは「悪事を天帝に報告させない」という庚申信仰の文脈から生まれ、後に「悪いことに関わらないようにする」という道徳的な教えとして広まったと考えられています。
また、三猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」のたとえであり、三猿を三尸虫になぞえ目、耳、口をふさいで悪事を天帝に告げないものです。
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馬頭観音が庚申塔に刻まれる理由
庚申塔に刻まれる尊格は青面金剛だけではありません。馬頭観音(ばとうかんのん)が彫られた庚申塔も各地に残っています。
馬頭観音はその名の通り、頭部に馬の頭を戴く観音様です。通常の観音様が穏やかな慈悲の表情をしているのに対し、馬頭観音は憤怒の形相をしており、仏教の観音菩薩の中では異色の存在です。
馬頭観音が庚申塔に結びつく理由はいくつかあります。
まず、馬頭観音は本来、馬・牛などの家畜の守護神として各地で信仰されてきた尊格です。農耕や輸送に馬が欠かせなかった時代、街道沿いに建てられる庚申塔は馬頭観音とも自然に結びつきました。
次に、馬頭観音はインドのヴィシュヌ神の化身「ハヤグリーヴァ(馬頭)」に由来する尊格で、密教では六観音のひとつに数えられます。石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという。青面金剛と馬頭観音が同一視・習合されたケースも存在します。
また馬頭観音の「馬」は、干支では「午(うま)」に対応し、五行では「火」に属します。庚申の「金」の気に対して「火が金を制する(火剋金)」という五行の相剋の関係があり、これが邪気を制する力として解釈された可能性もあります。
地蔵が庚申塔に刻まれる理由
お地蔵様が彫られた庚申塔も存在します。地蔵菩薩は本来、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を巡り、苦しむ衆生を救う菩薩です。
地蔵が庚申塔に結びつく理由は主に二つあります。
道祖神・塞の神としての地蔵
庚申塔は村の入口や辻・街道沿いに建てられることが多く、これは外から来る邪気や疫病を村に入れないための「塞の神(さえのかみ)」としての性格を持っていたからです。地蔵もまた、村境や辻に建てられて旅人と村を守る存在として信仰されてきました。両者の「場所」が重なることで、同じ塔に刻まれるようになりました。
地獄と三尸虫の関連
三尸虫が天帝に罪を告発すると、その人は地獄に落とされるとされました。地蔵は地獄道の衆生を救う菩薩であるため、三尸虫の告発によって地獄に落ちることへの恐れを和らげる守護として、庚申塔に組み合わされたと考えられます。
当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。庚申塔の成立初期には地蔵も主尊のひとつとして多く用いられていたのです。
猿田彦神と庚申塔——神道との結びつき
庚申信仰は仏教だけでなく、神道とも深く結びついています。
神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。
猿田彦神(サルタヒコノカミ)は、日本神話において天照大御神の孫・ニニギノミコトの天降りを先導した大神です。大きな鼻・赤い顔・赤く輝く目が特徴とされる異形の神でもあります。
猿田彦神が庚申信仰と結びついた理由として、庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという。
「庚申(こうしん)」と「幸神(こうしん)」の読みが一致し、猿田彦が道案内の神・塞の神であることが、村境や街道沿いに建てられる庚申塔の性格と重なったのです。
庚申塔と陰陽五行説——なぜ60日に一度なのか
庚申信仰のサイクルが「60日に一度」であることは、陰陽五行に基づく干支の周期と直結しています。
十干(10種類)と十二支(12種類)を組み合わせると、最小公倍数の60通りの組み合わせが生まれます。これが「六十干支(ろくじっかんし)」で、60通りすべてを一巡する周期が「一甲子(ひとえと)」です。
この60の組み合わせの中で「庚申」が回ってくるのは60日に一度。60年に一度「庚申の年」が訪れることも、特に特別視されました。さらに六十年に一度来る庚申の年に「供養塔」を建立しました。この供養塔の下には、村の現状を伝える品々や酒が埋納されました。今でいうタイムカプセルです。
五行の観点からも、庚申の日は「金の気が二重に重なる日」として特別視されました。五行の「金(こん)」は秋・西方・粛殺(生命を刈り取る力)を象徴します。この金の気が極まる日に、悪事を報告する三尸虫が活動するという発想は、陰陽五行的な世界観の中では非常に自然な論理として受け入れられたのです。
また庚申塔に「日月」が刻まれることが多いのも五行の文脈で読み解けます。太陽は「陽・火」、月は「陰・水」の象徴であり、日月を刻むことで陰陽のバランスが表現されています。
二鶏が彫られる理由
庚申塔をよく観察すると、三猿のほかに「二羽の鶏(にわとり)」が彫られていることがあります。
庚申の夜は「申の日」から始まり、「酉の日」に及ぶので酉と猿が庚申に結び付いたと言われています。酉は鶏で時を告げる神聖な鳥です。
庚申待は「庚申の日の夜」から始まり、翌朝(酉の時刻、または酉の日の夜明け)に終わります。夜明けを告げる鶏の声は庚申待の終わりを示す合図であり、一晩中起き続けた参加者にとって、鶏の鳴き声は「三尸虫を封じ込めた」という解放の知らせでもありました。
干支の「申(猿)」と「酉(鶏)」が並んで庚申塔に刻まれるのは、庚申の夜から翌日の酉の刻にかけての時間的な流れを象徴したものです。
庚申塔の歴史——平安貴族から江戸庶民へ
庚申信仰が日本に伝わったのは奈良・平安時代のことです。
庚申待は平安貴族の間に始まり、近世に入ってからは、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。
最初は宮中や貴族社会で行われていた貴族的な行事でしたが、鎌倉・室町時代を経て武士や庶民にも広まり、江戸時代には民衆信仰として全国に根付きました。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。このころには宮中でも、延宝4年(1676年)医師黒川道祐の『日次紀事』正月巻に、宮中の庚申の夜ごとに庚申の本尊として青面金剛に酒や菓子を供え、殿中の男女が飲食と御遊するという形式へと変化したとある。
しかし明治時代になると潮目が変わります。明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
今日私たちが目にする庚申塔は、こうした撤去・移転の歴史を経て生き残ってきたものです。
庚申塔を見る時に注目すべきポイント
庚申塔は地域や時代によって彫られる像や文字が異なり、ひとつひとつに個性があります。実際に見かけた時に確認したいポイントをまとめます。
主尊は何か
青面金剛・猿田彦神・地蔵・馬頭観音・阿弥陀・文字のみ、など主尊の種類で時代・地域・信仰の系統がわかります。
三猿の有無と姿
三猿が彫られているか、またその姿勢(目・耳・口をふさいでいるか、桃を持っているかなど)を観察すると、地域の特色が見えます。
二鶏の有無
三猿と二鶏がセットで彫られているものは、庚申信仰の「申から酉へ」という時間軸を意識したより充実した造形です。
ショケラの有無
青面金剛が女性の髪を掴む姿(ショケラ)が彫られているかどうかも観察ポイントです。
建立年と講員の名前
石塔の側面に建立年・地名・庚申講の参加者名が刻まれていることが多く、地域史の貴重な資料になっています。
場所
村の境・辻・街道沿い・寺社の境内など、建てられた場所からも「塞の神」としての性格や、どのような集落の記念碑だったかが読み取れます。
まとめ
- 庚申塔は道教の「三尸説」に基づく庚申信仰の石塔。60日に一度の庚申の夜に体内の虫(三尸虫)が天帝へ罪を告発するという信仰から生まれた
- 「庚申」は十干・十二支の組み合わせで、陰陽五行の「金の気が二重に重なる特別な日」を意味する
- 主尊の青面金剛は、インド密教・中国道教・日本民間信仰が重なり合って生まれた独自の尊格。青い顔・六本の腕・邪鬼を踏む姿はすべて邪気を制する力の象徴
- 三猿は三尸虫の「見る・聞く・言う」という告発の機能を封じる象徴。日光東照宮の三猿もこの庚申信仰に深く由来する
- 馬頭観音は家畜守護・街道の守護神として、地蔵は村境の塞の神・地獄への恐れを和らげる存在として庚申塔に刻まれた
- 猿田彦神は「申(猿)」と「幸神(こうしん)」の読みの一致、塞の神としての性格から庚申信仰と結びついた
- 平安貴族の行事として始まり、江戸時代に民衆の間で最も盛んになった。明治以降の撤去・移転を経て今に残る庚申塔は、日本人の信仰の歴史の証
道端に静かに立つ庚申塔は、道教・仏教・神道・陰陽五行説が渾然一体となった日本の信仰文化の結晶です。次に見かけた時には、彫られた像の意味と、かつてその塔の前で夜を明かした人々の姿を、少し想像してみてください。









