空白の150年とは?3世紀後半〜5世紀初頭、日本の歴史記録が消えた謎の時代

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日本の歴史を学ぶとき、必ずぶつかる大きな壁があります。3世紀後半から5世紀初頭にかけての、約150年間にわたる「空白」です。

卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」の称号を受けたのが239年。その孫世代にあたる女王・台与(とよ)が中国・晋に朝貢したのが266年。そしてその記録を最後に、中国の歴史書から「倭国」の姿が完全に消えます。次に現れるのは5世紀初頭、『宋書』などに登場する「倭の五王」——。

約150年のあいだ、倭国は中国史書の記録から姿を消しました。

この期間を「空白の150年」または「空白の4世紀」と呼びます。文字を持たなかった当時の日本にはリアルタイムの記録も残らず、中国側の記録も途絶えた——まさに「歴史の霧」に包まれた時代です。

しかしこの空白の時代、日本列島では実は劇的な変化が起きていました。前方後円墳が九州から関東まで一気に広がり、ヤマト政権の基盤が形成された——それを教えてくれるのが、文字ではなく「古墳」という石と土の記録です。

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「空白の150年」とは何か

まず「空白」の意味を正確に理解しておきましょう。

この空白とは「日本に何も起きなかった時代」ではありません

「中国の歴史書に倭国の記録が残っていない期間」のことです。

当時の日本(倭国)を知る主な手がかりは二種類ありました。

一つは中国の歴史書による記録

もう一つは発掘調査による考古学的証拠です

漢字(文字)が日本に本格的に伝わったのは4〜5世紀とされており、それ以前の日本にはリアルタイムで記された自国の記録が存在しません。そのため中国史書の記述が途絶えると、文字による歴史の手がかりがほぼ失われてしまうのです。

時代区分 期間の目安 主な記録・手がかり
空白の直前(邪馬台国の時代 3世紀前半〜266年 魏志倭人伝・晋書(中国史書)に卑弥呼・台与の記録
空白の150年 266年頃〜413年頃 中国史書に倭国の記録なし。古墳のみが物語る
空白の後(倭の五王の時代) 5世紀初頭〜478年 宋書・梁書などに倭の五王(讃・珍・済・興・武)の記録

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空白の直前——卑弥呼・台与の時代から読む

空白の150年がどれほど大きな断絶かを理解するために、直前の時代を振り返っておきましょう。邪馬台国とは、3世紀頃に女王・卑弥呼が統治した連合国家です。

239年、卑弥呼は中国・魏に使者を派遣し「親魏倭王」の称号と銅鏡百枚などを授かります。これが『魏志倭人伝』に詳しく記されており、当時の倭国の様子(30ほどのクニの連合、女王による統治、シャーマン的な政治形態)が伝わっています。卑弥呼の死後、いったん男王が立ちましたが争乱が続き、卑弥呼の宗女・台与(とよ、壱与とも)が女王となって国内が落ち着きます。

266年、台与は中国・晋に使者を送り朝貢します。これが『晋書』に記録されており、倭国についての中国史書の最後の記録となります。その後、中国が五胡十六国時代(304〜439年)の激しい動乱期に入ったことで、倭国との外交どころではなくなったという事情も、記録が途絶えた一因と考えられています。

 

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なぜ記録が途絶えたのか——空白の二つの理由

約150年間の空白が生まれた理由には、主に二つの要因があります。

一つ目は中国側の事情です。266年に晋が中国を統一しましたが、その後まもなく「八王の乱」(290〜306年)が起き、続いて北方の諸民族が侵入する「五胡十六国時代」(304〜439年)へと突入します。中国がこれほど激しい内乱と混乱の中にあっては、遠方の倭国との外交記録を丁寧に残す余裕はありませんでした。

二つ目は日本側の事情です。漢字が本格的に伝わる以前の倭国には、文字による記録の習慣がありませんでした。また、空白の150年の間に日本の政治体制そのものが大きく変わり、邪馬台国連合のような外交志向の政権が崩れ、新しい政治勢力(ヤマト政権)が形成される過渡期にあったことも、積極的な外交記録が生まれなかった背景として指摘されています。

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空白の時代に起きていたこと——古墳が語る「文字なき歴史」

記録の空白が「歴史の空白」を意味しないことを示す最大の証拠が、古墳です。この時期に日本列島では、前方後円墳を中心とした古墳の建設が急速に広がります。古墳時代は3世紀中頃に始まり、まさにこの空白の150年間が古墳文化の急拡大期にあたります。

前方後円墳の全国展開——ヤマト政権の「版図」

前方後円墳とは、円形の部分(後円部)と方形の部分(前方部)を組み合わせた、日本独自の墓の形式です。最大のものは大阪府堺市の仁徳天皇陵(大山古墳)で、全長約486メートルという世界最大級の墳墓です。

4世紀から5世紀にかけて、この前方後円墳は畿内(大和地方)から出発して九州・山陽・東海・関東へと急速に広がります。前方後円墳の分布をたどることは、そのまま当時の政治的勢力の広がりをたどることになります。これだけ統一的な墓の様式が全国に広まったという事実は、「ヤマト政権が各地の豪族を政治的に統合しつつあった」ことを考古学的に示す最大の証拠とされています。

鉄という「見えないインフラ」——朝鮮半島との関係

空白の150年における日本の「見えない変化」のもう一つの柱が、朝鮮半島南部からの鉄の輸入です。当時の日本列島では良質な鉄の採取・製錬がまだ難しく、農具・武器・工具などに必要な鉄を朝鮮半島南部(特に加耶地域)に依存していました。

ヤマト政権はこの朝鮮半島の鉄の入手ルートを掌握・管理することで、列島内の勢力に対して大きな優位性を持ちました。鉄は農業生産力に直結し、軍事力にも直結します。「鉄を差配する権益」こそが、ヤマト政権が列島内での覇権を確立した経済的な基盤だったと考えられています。

この背景から、4世紀後半にはヤマト政権が朝鮮半島への積極的な関与を始めます。広開土王碑(好太王碑)には倭が391年頃から朝鮮半島に軍事進出した記録が刻まれており、これが空白の150年の朝鮮半島と倭国の関係を伝える数少ない外部資料の一つです。

女王制から王権制へ——政治体制の根本的転換

空白の150年を挟んで、倭国の政治体制は根本的に変わりました。邪馬台国の時代は、シャーマン的な能力を持つ「女王」が宗教的権威によって諸国をまとめる体制でした。これに対し、空白の後に現れる倭の五王の時代は、「大王(おおきみ)」という男性の政治的・軍事的君主が支配する体制です。

この転換がいつ・どのように起きたかは不明ですが、前方後円墳の副葬品の変化がそのヒントを与えてくれます。古い時代の前方後円墳には銅鏡など祭祀的な副葬品が多いのに対し、時代が下るにつれて武器・甲冑・馬具など軍事的な副葬品が増えていきます。社会が「祭祀的な女王統治」から「軍事的な王権統治」へと変化したことが、古墳の内容物から読み取れます。

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空白の終わり——倭の五王の登場

約150年の沈黙を破って、倭国が再び中国史書に姿を現すのは5世紀初頭です。『宋書』倭国伝や『梁書』などに、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の記録が現れます。

倭王「讃」が413年に東晋に朝貢したとされるのが空白の終わりの始まりです。その後420年に宋(南朝宋)が成立すると、倭の五王は積極的に中国に使者を送り、「安東大将軍 倭国王」などの称号を求めました。これは単なる礼儀ではなく、「中国皇帝から認定を受けた正統な支配者」という権威を朝鮮半島の高句麗・百済・新羅に対してアピールするための外交戦略でした。

倭の五王のうち最後の「倭王武」は478年に宋に上表文を送り、自らの先祖が東西に征討して国土を開いたこと、高句麗との戦いを訴えています。この武は記紀に登場する第21代・雄略天皇に相当すると考えられており、後述の稲荷山古墳の鉄剣銘文との一致がその根拠とされています。

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空白の時代を照らす考古学的発見

稲荷山古墳の金錯銘鉄剣——文字で証明されたヤマト政権の広がり

1968年(昭和43年)、埼玉県行田市の稲荷山古墳から一振りの鉄剣が出土しました。発掘当初は銹で表面が覆われていましたが、1978年に錆を除去したところ、金で象嵌された115文字の銘文が現れました(金錯銘鉄剣、国宝)。

銘文には「辛亥年(471年)に、ヲワケ臣がワカタケル大王の宮に仕えた記念として作った」とあり、祖先8代の系譜が刻まれています。「ワカタケル大王」は記紀の雄略天皇に比定されており、埼玉県という東国の古墳からこの銘文が出たことは、5世紀後半にはヤマト政権の支配が関東にまで及んでいたことを文字で証明する決定的な証拠となりました。

同時期に熊本県の江田船山古墳からも「ワカタケル大王」の名を含む鉄刀銘が出土しており、九州から関東まで同一の大王に仕えていたことが確認されています。これにより、空白の150年を経た5世紀後半には、ヤマト政権が広域の統一政権として確立していたことが考古学的に証明されました。

広開土王碑——朝鮮半島側から見た倭国

1880年代に満州(現・中国東北部)で発見された広開土王碑(好太王碑)は、高句麗の広開土王(在位391〜413年)の功績を記した石碑です。その碑文に「391年に倭が海を渡り、百残(百済)・新羅を破って臣民とした」という記述があります。

この記述の解釈をめぐっては日韓の研究者の間で長い論争がありますが、少なくとも空白の150年の末期(4世紀末)に倭が朝鮮半島に軍事的に関与していたこと自体は、外部の資料によって確認できます。

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空白の150年と日本神話——記紀が語る「空白」の神々

古事記・日本書紀はこの時代をどう語っているのでしょうか。

記紀の神武天皇から第14代・仲哀天皇までの年代を現代の歴史年表に当てはめると、多くが実際の時代とずれる、あるいは著しく長い治世が設定されているという特徴があります。古事記・日本書紀が完成したのは712年・720年で、書かれた時点から400〜500年前の「記録のない時代」を神話と伝承で埋める形になっています。

神功皇后(じんぐうこうごう)応神天皇の時代が、ちょうどこの空白の150年頃に相当するとされる説があります。神功皇后の「三韓征伐」伝説は、この時期の朝鮮半島への関与を神話的に表現したものとも読めます。また応神天皇は「弓矢と馬を使いこなす強力な王権」の象徴として描かれており、この時代に馬文化が朝鮮半島経由で日本に伝来したことと符合します。

記紀神話と考古学の空白の150年を接続することは現時点では確定的ではありませんが、神話と考古学の両面から時代を読み解いていくことに、日本の古代史研究の醍醐味があります。

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空白の150年に何が起きたか——現在の有力な理解

現在の歴史学・考古学が提示する「空白の150年」の概況をまとめると、次のようになります。

変化の側面 空白の前(邪馬台国時代) 空白の後(倭の五王時代)
政治体制 邪馬台国連合・女王による祭祀的統治 ヤマト政権・大王による軍事的統治
支配範囲 西日本中心の連合 九州から関東まで広域に展開
墓の形態 弥生墳丘墓・方形周溝墓 前方後円墳の全国展開
主な副葬品 銅鏡・玉など祭祀的なもの 武器・甲冑・馬具など軍事的なものが増加
鉄の利用 朝鮮半島からの輸入に依存 鉄の差配がヤマト政権の権威基盤に
対外関係 中国への朝貢外交が中心 朝鮮半島への軍事的関与・5世紀に中国外交再開

「空白」と呼ばれているこの150年間は、実は日本の歴史上もっとも劇的な変化が起きた時期の一つでした。邪馬台国の「諸国連合・女王統治」という体制が崩れ、前方後円墳というシンボルのもとに九州から関東が統合され、のちの大和朝廷・律令国家へとつながるヤマト政権の基盤が形成された——その一切が「文字の記録」を残さないまま起きたのです。

古墳という「土と石の記録」だけを頼りに、歴史家と考古学者たちが今も少しずつその霧を晴らそうとしています。空白の150年は、解かれた謎ではなく、今もなお解かれつつある謎です。

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