
「忌部(いんべ)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。中臣氏(後の藤原氏)とならんで古代日本の宮廷祭祀を担った名門氏族でありながら、その名は歴史の表舞台からひっそりと消え、多くの人に知られないまま今日に至っています。
しかし令和の大嘗祭でも徳島の忌部の末裔が麻の織物「麁服(あらたえ)」を天皇に献上しており、忌部氏の祭祀の伝統は現代にも途切れることなく続いています。本記事では、忌部とは何か、忌部氏がどのような人々だったか、そして徳島に伝わる忌部神社をめぐる数奇な歴史を解説します。
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忌部とは——「穢れを忌む」聖なる集団
「忌部(いんべ)」とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族の総称です。「忌」という字は「慎みをもって神事において穢れを取り去り、身を清めること」を意味します。つまり忌部とは「穢れを忌む(遠ざける)集団」という意味であり、神聖な祭祀の場において心身の清浄を保つことを本務とした人々でした。
忌部氏の祖神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)です。古事記・日本書紀の天岩戸隠れ神話では、天照大御神が岩戸に隠れて世界が暗闇に包まれたとき、天太玉命は祭具を整えて大がかりな神事を取り仕切りました。天孫降臨神話でもニニギノミコトに従って地上に降りたとされており、忌部氏はこの天太玉命を始祖と仰ぎながら、日本の国家祭祀の根幹を担い続けてきたのです。
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忌部氏と中臣氏——歴史に消えた宮廷祭祀のもう一つの柱
古代の宮廷祭祀において、忌部氏は中臣氏とならぶ両輪でした。中臣氏が祝詞を奏上する「言の祭祀」を担ったのに対し、忌部氏は幣帛・祭具の製作、宮殿の造営、神酒の醸造など「もの(物)の祭祀」を担いました。
しかし律令制が整備されていく中で、両氏の立場に格差が生じます。天武天皇が制定した「八色の姓(やくさのかばね)」において、中臣氏は「朝臣(あそん)」の姓を与えられた一方、忌部氏は一段下の「宿禰(すくね)」の姓にとどめられました。その後も勢力を拡大した中臣氏(藤原氏)に対し、忌部氏は次第に本来の職務から遠ざけられていきます。
平安初期の大同2年(807年)、忌部宿禰広成は忌部氏の正統性と由緒を訴えるため、『古語拾遺(こごしゅうい)』を平城天皇に撰上しました。この書は「古来の語り伝えのうち書に漏れたものを拾い集めた」という意味を持ち、天地開闢から神武天皇の代までの神話と忌部氏の祭祀上の功績を記した貴重な文献です。中臣氏が独占していた祭祀を忌部氏本来の役割に戻すよう訴えましたが、状況は変わらず、忌部氏は歴史の表舞台から姿を消していきました。
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全国に広がった忌部——各地の「品部」という職業集団
忌部氏は中央の氏族だけでなく、各地に「品部(ともべ)」と呼ばれる職業的な集団として展開していました。中央忌部は奈良県橿原市忌部町の「天太玉命神社」を本拠とし、各地の忌部氏を率いましたが、地方忌部はそれぞれが専門の技術と祖神を持っていました。
| 忌部の名称 | 地域 | 祖神 | 主な役割・貢納品 |
|---|---|---|---|
| 阿波忌部 | 徳島(阿波国) | 天日鷲命(あめのひわしのみこと) | 麻・穀(楮)の栽培、麁服(麻織物)の大嘗祭献上 |
| 讃岐忌部 | 香川(讃岐国) | 手置帆負命(たおきほおいのみこと) | 竹・盾の製作と貢納 |
| 出雲忌部 | 島根(出雲国) | 櫛明玉命(くしあかるたまのみこと) | 玉(勾玉など)の製作と貢納 |
| 紀伊忌部 | 和歌山(紀伊国) | 彦狭知命(ひこさしりのみこと) | 宮殿の木材の調達と貢納 |
| 筑紫・伊勢忌部 | 福岡・三重 | 天目一箇命(あめのまひとつのみこと) | 鍛冶(刀剣・農具の製作) |
このほか越前(福井)・淡路(兵庫)・備前(岡山)・隠岐(島根)・安房(千葉)などにも忌部氏が居住していたとされます。忌部氏は単一の一族ではなく、それぞれの地域で専門技術を持つ「技術者集団にして祭祀集団」の連合体だったと言えます。
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阿波忌部とは——徳島を拓いた祭祀と産業の民
全国の忌部氏の中でも特に重要な位置を占めるのが、徳島を拠点とした阿波忌部(あわいんべ)です。その祖神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)で、麻や穀(楮)の栽培に長けた集団でした。
天岩戸神話における天日鷲命
天日鷲命は日本書紀の天岩戸神話で「木綿(ゆう)作りをした」と記録され、天孫降臨神話では「作木綿者」とあります。古語拾遺では、天照大御神が岩戸に隠れた際、天日鷲命が穀(楮)の木を植えて白和幣(しろにきて)——楮の繊維を織った布——を一夜にして作ったとされています。天岩戸を開くための神聖な祭具を調えたのが天日鷲命の子孫・阿波忌部だったのです。
阿波国(徳島県)の開拓と地名の由来
古語拾遺によれば、天日鷲命の孫の代に天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部を率いて阿波国(現・徳島県)に入り、穀と麻を植えて大嘗祭に木綿や麻布などを貢進しました。このとき麻がよく育った土地は「麻殖郡(麻植郡)」と名付けられ、これが現在の吉野川市・麻植郡一帯の地名の由来となっています。また吉野川中流域の川中島(現・善入寺島)は阿波忌部が粟(あわ)を植えてよく実ったことから「粟島」と呼ばれ、これが「粟国(阿波国)」、ひいては「阿波(あわ)」という地名の由来になったとも伝えられています。
東国への進出——安房国の開拓と安房神社
阿波忌部の一部はさらに天富命に率いられて東国(関東)に入植し、麻と穀を植えました。穀がよく実った土地は結城郡(茨城県結城市)、麻がよく実った土地は総国(上総・下総)と呼ばれ、安房忌部が定住した地は安房郡(現・千葉県南部)となりました。そこに天太玉命を祀る安房社が建てられたとあり、これが現在の「安房神社(千葉県館山市)」の起源とされています。阿波忌部の足跡は徳島にとどまらず、日本列島の東西にわたっていたのです。
千葉県は、南側の最も海側である館山市側が上総という上となっていて、北部が下総となっていますが、これは阿波忌部の一部が東国に入った際に、立山側から入ってきたためだと考えられます。おそらくこの頃は下総の方ではまだ縄文的な生活を営んでいて、上総側から少しずつ阿波忌部の勢力が広まっていったのではないでしょうか。そして、香取神宮、鹿島神宮という格式が高い神社があるのも、天照大御神に近い忌部氏(天日鷲命)の影響もあった可能性があります。
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大嘗祭と阿波忌部——今も続く麁服の調進
忌部氏の最も重要な役割の一つが、天皇が即位後に初めて行う大嘗祭への「麁服(あらたえ)」の献上です。麁服とは麻で織った粗い布のことで、大嘗祭においては神に捧げる神聖な衣装として天皇に献上されます。
延喜式(927年成立)には「阿波忌部は大嘗祭に麁服を調進すること」が定められており、この役割は阿波忌部の末裔である三木家が代々受け継いできました。平成2年(1990年)の大嘗祭では、木屋平村で栽培された麻が山崎忌部神社の境内の織殿で織られ、徳島市の忌部神社の宮司が斎主となって神事が行われ、宮内庁に供納されました。令和元年(2019年)の大嘗祭でも同様に麁服が調進されており、千年以上前から続く忌部の祭祀の伝統が、形を変えながらも今日まで受け継がれています。
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忌部神社のルーツ——徳島に三つの「正統」が争った数奇な歴史
延喜式神名帳(927年)には「阿波国麻殖郡 忌部神社」が名神大社として記載されており、四国随一の格式を誇りました。源義経が屋島の合戦の際に太刀を奉納し、那須与一が弓矢を奉納したほか、源頼朝が御供料として田畑1000町歩を寄進したという記録も残っています。
しかしこの由緒ある忌部神社は、戦国時代の兵乱(長宗我部元親の軍勢による荒廃とも伝わる)によって社地が失われ、所在不明となってしまいます。その後、複数の神社が「我こそが正統な忌部神社である」と名乗りをあげ、明治時代には本物の「忌部神社はどこか」をめぐって壮絶な争いが繰り広げられました。
三社の争いと太政官の「妥協策」
明治4年(1871年)、政府は「所在地不明」のまま忌部神社を国幣中社に列しました。翌5年、国学者・小杉榲邨の考証により、吉野川市山川町の山崎忌部神社が式内忌部神社に比定され、国幣中社に指定されます。
ところがこれに猛反発したのが、美馬郡つるぎ町の五所神社(御所神社)です。同社は「式内忌部神社は我が社である」と主張し激しく訴えました。明治7年(1874年)の太政官布告で改めて山崎忌部神社と確定されましたが、それでも論争は収まらず、ついに明治14年(1881年)には御所神社側の主張が認められて式内忌部神社の比定が変更されてしまいます。今度は山崎側が激しく反発し、流血沙汰も起こるほどの騒動となりました。
収拾のつかない事態に太政官がとった「妥協策」は、どちらの神社でもない第三の地——徳島市内の眉山中腹に新たな社地を設けるというものでした。明治18年(1885年)に眉山の金刀比羅神社に仮遷座し、明治25年(1892年)に現在の徳島市二軒屋町に社殿が竣工、ここに現在の忌部神社が鎮座することになりました。御所神社はその境外摂社という扱いになっています。
| 社名 | 所在地 | 現在の位置づけ | 特記事項 |
|---|---|---|---|
| 忌部神社 | 徳島市二軒屋町 | 式内社後継・旧国幣中社・別表神社 | 明治25年(1892年)創建。太政官の妥協策として設立。令和大嘗祭の麁服神事の斎場 |
| 山崎忌部神社 | 吉野川市山川町忌部山 | 忌部山の旧社地・令和大嘗祭の麁服織殿 | 阿波忌部本来の本拠地とされる。忌部山古墳群(6世紀後半)がそびえる。麻の注連縄が特徴的。旧村社 |
| 御所神社(五所神社) | 美馬郡つるぎ町貞光 | 忌部神社の境外摂社 | かつて忌部大神宮があったとも。樹齢400年の県内最大エドヒガン桜を持つ |
現在の忌部神社(徳島市)の見どころ
徳島市二軒屋町に鎮座する忌部神社は、神社本庁の別表神社に列せられる格式ある神社です。祭神は天日鷲命で、麻や穀を植えた農業・産業の神、また「麻殖の神」として崇敬されています。境内の注連縄は麻で作られており、忌部の麻の伝統が今も息づいています。社紋は「梶(穀)の葉紋」で、天日鷲命が楮(穀の木)を植えた故事に由来します。昭和20年(1945年)の空襲でほぼ全焼しましたが、昭和28年(1953年)に本殿が、昭和43年(1968年)に拝殿が再建されました。
山崎忌部神社(吉野川市)——阿波忌部の原点
吉野川市山川町忌部山に鎮座する山崎忌部神社は、阿波忌部の本拠地だった場所に建つ神社です。JR徳島線山瀬駅から東南へ約1キロ、170段ほどの石段を登った忌部山の中腹に社殿があります。社紋は「麻の葉紋」で、徳島市の忌部神社の「梶(穀)紋」とは異なり、天日鷲命が植えたもう一つの植物・麻を象徴しています。境内には「麁服織殿跡」があり、歴代の大嘗祭に際して三木氏(忌部の末裔)が麁服を織った機殿の遺跡です。神社裏山には6世紀後半築造の忌部山古墳群(5基の円墳)が残り、山崎説の考古学的な根拠ともなっています。
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忌部の精神——今も生きる祭祀の伝統
忌部氏が歴史の表舞台から姿を消して久しいですが、その精神と役割は現代にも確かに息づいています。大嘗祭への麁服調進はその最たるものであり、麻を植え、織り、天皇に奉る——この古代からの行為が、千年以上の時を経てなお続いているのは驚くべきことです。
また徳島(阿波国)という地が「粟国」と呼ばれ、その名前自体に阿波忌部が粟を植えた記憶が刻まれていること、麻殖郡という地名が麻を植えた忌部の故事を今に伝えていることも、この土地と忌部の深い結びつきを示しています。
中臣氏(藤原氏)の陰に隠れながらも途絶えることなく続いた忌部の血脈と祭祀の伝統——それは日本の神道と宮廷文化の根幹を支えてきた、目に見えない柱の一つでした。
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