阿倍仲麻呂とは 百人一首にも登場、科挙合格の奈良時代の遣唐使

阿倍仲麻呂、この名を聞いたことがあるでしょうか?奈良時代の遣唐使として唐に渡り、科挙に合格した稀有な才能の持ち主。彼の生涯は、日本と中国の文化交流において重要な役割を果たしました。この記事では、阿倍仲麻呂がどのようにして遣唐使となり、唐でどのような影響を与えたのか、また彼の情緒豊かな詩が百人一首にどのように詠まれているのかを探ります。

阿倍仲麻呂とは?

阿倍仲麻呂は奈良時代の日本の貴族で、遣唐使として知られています。彼は中国の唐で学び、その後も長く唐に留まり、文化や政治に深く関与しました。特に彼の学問と詩才が高く評価され、日中の文化交流に大きく寄与しました。

阿倍仲麻呂は何をした人かわかりやすく解説

阿倍仲麻呂は、奈良時代に遣唐使として中国の唐に渡り、その地で多大な功績を残した人物です。唐の太学で学び、科挙に合格または推挙により登用され、唐の玄宗皇帝に仕えました。725年からは洛陽の司経局校書、728年には左拾遺、731年には左補闕として官職を重ね、主に文学畑の役職を務めました。彼は李白や王維といった当時の著名な詩人たちとも親交があり、その詩作活動は『全唐詩』にも記録されています。

733年、多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐した際、彼は遣唐使の諸事を補佐しましたが、その後も唐での官途を追求し、帰国することはありませんでした。752年には衛尉少卿に昇進し、この年来唐した第12次遣唐使の応対を担当しましたが、帰国許可は容易には得られませんでした。

益久島に向けて出帆した際、彼の乗船した第1船は暴風に遭い南方へ漂流しましたが、幸いにも安南に漂着し生存しました。その後、清河と共に中国に戻り、再び唐で官途に就きました。最終的に、彼は天平宝字4年(760年)に左散騎常侍(従三品)から鎮南(安南)都護・安南節度使(正三品)として重要な役割を果たしました。

彼の日本への帰国は叶わず、770年に73歳で生涯を閉じました。阿倍仲麻呂の死後、唐の代宗は彼の功績を称えて潞州大都督の官名を追贈しました。彼の生涯は、日本と中国の間の文化交流を深めた象徴的な存在として今もなお評価されています。

阿倍仲麻呂は遣唐使

遣唐使として717年に唐の都・長安へ渡った阿倍仲麻呂は、そこで科挙に挑戦し、合格するという非常に珍しい経験をしました。彼は唐の王朝で高い地位にも就き、一生の大部分を中国で過ごしました。

阿倍仲麻呂が唐(中国)で合格した科挙とは

科挙は、唐の官僚を選出するための国家試験です。阿倍仲麻呂は、外国人としては極めて異例のことに、この科挙に合格しました。これにより、彼は正式な唐の官僚として働く資格を得たのです。

李白と阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂は、唐の大詩人李白とも交流がありました。両者は詩作で親交を深め、李白は仲麻呂の詩才を高く評価していました。李白自身も仲麻呂の詩に触発されることがあったとされています。

阿倍仲麻呂の関連する百人一首の歌

阿倍仲麻呂は百人一首にも選ばれており、一時帰国の際に仲麻呂が詠んだとされる「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」という一首が有名です。この歌は、彼が唐で過ごす中で故郷を懐かしんだ情景を詠んだものです。