阿倍仲麻呂とは何をした人?科挙合格・李白との友情・百人一首「天の原」の悲しい物語

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「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」──百人一首に収められたこの歌の作者・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、奈良時代に遣唐使として唐に渡り、超難関の科挙に合格して唐の高官にまで昇りつめた、日本史上屈指の国際人です。しかし彼は、二度と日本の土を踏むことができませんでした。
この記事では、阿倍仲麻呂が何をした人なのか、科挙合格の凄さ、詩人・李白との友情、百人一首の歌に込められた望郷の思い、そして帰国が叶わなかった波乱の生涯を、年表とともにわかりやすく解説します。
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阿倍仲麻呂とは?何をした人か簡単に
阿倍仲麻呂(698年頃〜770年)は、奈良時代の貴族で、遣唐使の留学生として16歳頃に唐へ渡り、外国人でありながら唐の官僚登用試験を突破して玄宗皇帝に仕えた人物です。唐名は「朝衡(ちょうこう)」。李白や王維といった唐を代表する詩人たちと親交を結び、最終的には唐の高官として生涯を終えました。日本と中国の文化交流を象徴する存在として、現在も西安(長安)に記念碑が立っています。
まず、その生涯を年表で見てみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 698年頃 | 阿倍船守の子として生まれる |
| 717年 | 遣唐使とともに唐へ留学(吉備真備・玄昉と同期) |
| 720年代 | 科挙に合格し、唐の官僚となる(洛陽の司経局校書など) |
| 733年 | 第10次遣唐使が来唐。帰国せず唐に残る |
| 753年 | 帰国を許され出航するも嵐で難破、ベトナム(安南)に漂着 |
| 755年 | 長安に帰還。まもなく安史の乱が勃発 |
| 760年頃 | 安南都護・安南節度使(現在のベトナム方面の長官)に任じられる |
| 770年 | 帰国叶わぬまま、唐で死去(73歳頃) |

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科挙合格はどれほど凄いのか
科挙は、唐の官僚を選抜する国家試験です。中国全土の秀才が人生を懸けて挑み、それでも合格できるのはごくわずか。「五十少進士(50歳で進士に合格すれば若い方)」と言われたほどの難関でした。
これは現代で言えば、外国に単身留学した10代の若者が、その国の言葉で司法試験と国家公務員試験を兼ねたような最難関試験に挑み、現地のエリートたちを押しのけて合格したようなものです。合格の正確な経緯には推挙によるとする説もありますが、いずれにしても外国人が唐の中枢で文官として出世を重ねたこと自体が、東アジア史でも極めて異例の快挙でした。仲麻呂の学才は本物だったのです。
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李白との友情──死を悼まれた日本人
仲麻呂は、唐を代表する大詩人・李白や王維と深い親交を結びました。その友情を物語るのが、753年の遭難の後日談です。
仲麻呂の乗った船が嵐で消息を絶ったとの知らせを聞いた李白は、彼が死んだと思い込み、「哭晁卿衡(晁衡を哭す)」という追悼の詩を詠みました。「明月は蒼海に沈んで帰らず」──明月のような君は青い海に沈んで二度と帰らない、と友の死を嘆いたのです。実際には仲麻呂はベトナムに漂着して生きており、後に長安へ戻るのですが、大詩人に挽歌を詠ませるほど深く愛された日本人がいたという事実は、それだけで胸を打ちます。
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百人一首「天の原」の歌に込められた望郷
仲麻呂の名を今日まで伝えているのが、百人一首の第7番に選ばれたこの歌です。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
(大空をはるかに見上げれば月が出ている。あの月は、故郷の春日にある三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ)
この歌は753年、ようやく帰国を許された仲麻呂の送別の宴で詠まれたと伝えられています(『古今和歌集』の詞書による)。36年ぶりの帰国を前に、唐の空に浮かぶ月と故郷・奈良の三笠山の月を重ねた歌ですが、運命は残酷でした。この直後、彼の船だけが嵐に呑まれ、帰国は永遠に叶わなくなるのです。同じ船団で渡航した鑑真の船は日本にたどり着いたことを思うと、月に託した望郷の思いがいっそう切なく響きます。
なおこの歌が実際に宴で詠まれたのか、後世に整えられて伝わったのかについては議論もありますが、異国で生涯を終えた仲麻呂の人生と分かちがたく結びついた一首であることは間違いありません。
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なぜ帰国できなかったのか
仲麻呂が帰国できなかった理由は、一度ではなく何重にも重なっています。若い頃は玄宗皇帝に才能を惜しまれ、帰国の許可がなかなか下りませんでした。753年にようやく帰国の船に乗れば嵐で難破。長安に戻ればまもなく安史の乱という大反乱が起こり、唐そのものが混乱期に入って、再び日本へ渡る機会は失われました。
晩年の仲麻呂は、安南都護(ベトナム方面の長官)という要職を任されるほど唐朝から信頼されていました。祖国に帰れなかった人生は悲運と言えますが、見方を変えれば、その才能を国境に関係なく認めさせ、異国で最高位まで駆け上がった充実の生涯だったとも言えます。筆者は、仲麻呂を「帰れなかった悲劇の人」とだけ見るのは一面的だと感じています。彼が唐の宮廷で果たした役割は、結果として日本という国の評価を大きく高めました。個人の望郷と、国家間の架け橋という役割──その両方を背負って生きた人物として見るとき、あの月の歌はより深く味わえるのではないでしょうか。
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同期の留学生・吉備真備との対比──帰った男と残った男
仲麻呂の人生を考えるとき、興味深い比較対象になるのが、717年に同じ船団で唐に渡った吉備真備(きびのまきび)です。二人はいわば「同期の留学生」でしたが、その後の人生は対照的でした。
| 項目 | 阿倍仲麻呂 | 吉備真備 |
|---|---|---|
| 唐での道 | 科挙を経て唐の官僚として出世 | 17年余り学問を修めて帰国 |
| 帰国 | 叶わず(753年の帰国は難破) | 735年に帰国、753年に再渡唐も果たす |
| その後 | 安南都護など唐の要職を歴任 | 日本で学問を広め、右大臣まで昇進 |
| 残したもの | 日唐の架け橋、百人一首の歌 | 唐の学問・兵学の移植、地方出身者の異例の出世 |
学んだ知識を持ち帰って祖国を変えた真備と、異国の中枢で登りつめて日本の存在感を示した仲麻呂。どちらの人生がより「遣唐使の使命」を果たしたのかは、簡単には答えの出ない問いです。筆者は、この対照的な二人がいたからこそ、遣唐使という事業の厚みが生まれたのだと考えています。国に帰って知を広める人と、外に残って信頼を築く人──国際交流には、今も昔もこの両方が必要なのではないでしょうか。
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まとめ
阿倍仲麻呂は、717年に遣唐使の留学生として唐に渡り、科挙という最難関試験を突破して玄宗皇帝に仕えた奈良時代の国際人です。李白に死を悼む詩を詠まれるほど唐の文人たちに愛され、753年の帰国の試みは嵐に阻まれ、安南都護という要職を務めたのち、770年に唐でその生涯を閉じました。
「天の原ふりさけ見れば」の歌は、千年以上たった今も、故郷を離れて生きるすべての人の心に響き続けています。夜空の月を見上げるとき、長安の都で同じ月を見上げていた一人の日本人のことを、思い出してみてください。



