遣唐使は何時代?年表と目的、廃止した理由をわかりやすく解説

遣唐使は何時代?年表と目的、廃止した理由をわかりやすく解説

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祓え給い、清め給え

「白紙(894)に戻す遣唐使」──語呂合わせで覚えた方も多い遣唐使(けんとうし)は、飛鳥時代から平安時代まで約260年にわたって日本が唐(中国)へ送り続けた使節団です。命がけの航海の先で日本が手に入れたものは、律令制度、仏教、そして天平文化の礎となる膨大な知識でした。

この記事では、遣唐使の目的と遣隋使との違い、危険な航海の実態、唐に渡った阿倍仲麻呂・吉備真備・空海ら人物たちの物語、そして菅原道真による「廃止」の真相まで、日本の歴史の流れの中でわかりやすく解説します。

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遣唐使とは?目的を簡単に

遣唐使とは、630年から894年まで、日本の朝廷が唐に派遣した公式の外交使節団です。その目的は大きく二つありました。

  • 外交……当時の東アジアの超大国・唐と友好関係を保ち、国際情勢の情報を得ること
  • 文化の輸入……唐の進んだ政治制度(律令)、仏教、学問、技術を学び、日本に持ち帰ること

630年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を大使とする第1回の派遣に始まり、894年に菅原道真の建議で停止されるまで、任命はおよそ20回、実際に海を渡ったのは十数回とされます(数え方には諸説あります)。一度の派遣は多いときで4隻・500〜600人規模という、国家の総力を挙げた大事業でした。

遣隋使との違い

遣唐使の前身が、聖徳太子の時代に小野妹子らが派遣された遣隋使です。618年に隋が滅び唐が建国されたため、派遣先の国名に合わせて遣隋使から遣唐使へと呼び名が変わりました。「日出づる処の天子」の国書で知られるように、隋・唐いずれに対しても、日本は臣下の礼を取りきらない独自の立場を保とうとした点が特徴です。

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遣唐使の航路と船──命がけの渡航

遣唐使船は木造の大型帆船で、1隻に120〜150人ほどが乗り込みました。しかし当時の造船・航海技術では東シナ海の横断は極めて危険で、遭難や難破が相次ぎました。無事に往復できる保証はなく、まさに命がけの旅だったのです。

航路は時代によって変わりました。

航路ルート時期
北路朝鮮半島の西岸沿いに進む比較的安全なルート7世紀前半
南路五島列島から東シナ海を一気に横断する危険なルート8世紀以降
南島路奄美・沖縄方面を経由するルート8世紀(諸説あり)

安全な北路が使えなくなったのは、663年の白村江の戦いで日本が唐・新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島との関係が悪化したためです。外交の失敗が航海の危険を増したという皮肉な経緯でした。危険を象徴するのが唐の高僧・鑑真(がんじん)です。日本への渡航に5回失敗し、失明しながらも6回目でようやく来日を果たした鑑真の物語は、当時の航海がどれほど過酷だったかを物語っています。

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遣唐使が持ち帰ったもの

危険に見合うだけの成果を、遣唐使は日本にもたらしました。

  • 律令制度……唐の法体系にならった大宝律令(701年)により、日本は法に基づく中央集権国家の形を整えた
  • 仏教……玄昉が持ち帰った経典、最澄の天台宗、空海の真言密教など、日本仏教の骨格が形成された
  • 学問・技術……暦、医学、建築、音楽など。正倉院にはシルクロード経由の宝物が今も残る
  • 文化……唐の国際色を反映した天平文化が花開いた

奈良の都・平城京そのものが唐の長安をモデルに造られており、遣唐使の影響は国家の設計図にまで及んでいたと言えます。

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唐に渡った人々──阿倍仲麻呂・吉備真備・空海

阿倍仲麻呂──唐の高官になった留学生

717年に留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は、超難関の科挙に合格し、「朝衡(ちょうこう)」の名で玄宗皇帝に仕えました。詩人の李白や王維とも親交を結んだ国際人です。753年、ついに帰国の船に乗りますが嵐でベトナムまで流され、帰国は叶わないまま唐で生涯を終えました。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

百人一首にも収められたこの歌は、仲麻呂が異国の空の下で故郷・奈良の月を思って詠んだものと伝えられています。

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吉備真備と玄昉──帰国して国を動かした二人

仲麻呂と同じ船で唐に渡った吉備真備(きびのまきび)は、儒学・兵学・暦学など幅広い学問を修めて帰国し、地方豪族の出身ながら右大臣にまで昇りつめました。僧・玄昉(げんぼう)も多数の経典を持ち帰り、聖武天皇の時代に政治の中枢で活躍しています。留学経験がそのまま国家運営に活かされた、遣唐使の成功例と言えるでしょう。

最澄と空海──日本仏教を変えた804年の派遣

804年の遣唐使では、最澄と空海という日本仏教史上の二大巨人が同時に唐へ渡りました。帰国後、最澄は比叡山に天台宗を、空海は高野山に真言宗を開き、平安仏教の二本柱となります。この一度の派遣が日本の宗教史を大きく変えたと考えると、遣唐使という事業の重みが実感できます。

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遣唐使の廃止──菅原道真の建議とその真相

894年、遣唐使の大使に任命された菅原道真は、朝廷に派遣の中止を建議しました。理由は主に次の三つと考えられています。

  • 唐が安史の乱や黄巣の乱で衰退し、学ぶべきものが少なくなっていた(実際、唐は907年に滅亡)
  • 航海の危険が大きく、人材の損失に見合わない
  • 唐や新羅の民間商船が往来し、公式使節に頼らずとも文物が入手できるようになっていた

ここで一つ、よく誤解される点があります。894年に決まったのは正式な「廃止」ではなく、あくまで派遣の停止(延期)であり、その後再開されないまま907年に唐自体が滅んだため、結果的に廃止となった──というのが実態に近い経緯です。また近年では、道真自身が危険な渡航を避けたかったという人間味のある動機や、宇多天皇の政治状況を絡めた政治的判断だったとする説も語られています。筆者としては、唐の衰退という大きな流れの中で、費用対効果を冷静に見極めた合理的な判断だったと見るのが自然だと考えますが、複数の思惑が重なった結果と捉えると歴史はより立体的に見えてきます。

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筆者の考察──遣唐使の終わりは「日本文化の始まり」

遣唐使の停止後、日本では唐風文化を消化・発酵させた国風文化が花開きます。漢字から仮名文字が生まれ、『源氏物語』や『枕草子』といった世界に誇る文学が誕生しました。

ここに筆者は、日本文化に繰り返し現れるパターンを感じます。外から懸命に学ぶ時期と、学んだものを自分たちの形に作り変える時期が交互に訪れる──漢字を学んで仮名を生み、仏教を受け入れて神仏習合という独自の信仰を育てたように、遣唐使の260年は「学びの時代」であり、その終わりは「創造の時代」の始まりだったのではないでしょうか。もし遣唐使が続いていたら仮名文学の開花は遅れていたかもしれない、と想像してみると、道真の建議は日本文化史の大きな転換点だったことがわかります。

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まとめ

遣唐使は、630年の犬上御田鍬の派遣に始まり、894年に菅原道真の建議で停止されるまで続いた、唐への公式使節団です。命がけの航海の先で、律令制度・仏教・学問・技術という国家の骨格となる知識を日本にもたらし、天平文化を花開かせました。阿倍仲麻呂のように唐の地で生涯を終えた者、吉備真備や空海のように帰国して日本を変えた者──一人ひとりの人生が、そのまま日本と大陸の交流史でもあります。

そして遣唐使の終わりは、学んだものを日本独自の文化へと昇華させる国風文化の幕開けとなりました。外に学び、内で育てる。遣唐使の歴史は、日本文化の成り立ちそのものを映す鏡なのかもしれません。

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祓え給い、清め給え

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