遣唐使とは?飛鳥時代から始まり奈良時代に廃止されるまでに得たもの

日本の古代外交の中心である「遣唐使」について探究するこの記事では、飛鳥時代から奈良時代にかけて続けられたこの重要な使節団の歴史を深掘りします。遣唐使がどのようにして始まり、どのような影響を日本にもたらしたのか、そしてその過程で出会った人々や文化の交流に焦点を当てています。特に、留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂の物語に注目し、彼がどのようにして異文化の中で生活し、どのような遺産を残したのかを詳しく紹介します。

遣唐使とは?飛鳥時代から奈良時代に廃止されるまでに得たもの

遣唐使は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本が唐の中国に派遣した使節団であり、その目的は、政治的な使命とともに、当時の先進国である唐から最新の文化や知識を日本に取り入れることにありました。この使節団の派遣は、630年に初めて犬上三田耜(いぬがみのみたすき)らが唐に赴いて以来、894年に菅原道真がその廃止を建言するまで続けられました。

遣唐使として唐に留学した日本人は何人くらい?

遣唐使によって唐に留学した日本人の正確な数は文献によって異なりますが、数十人から数百人と推定されています。これには留学生だけでなく、技術や宗教の修行のために長期間留まった僧侶や学者も含まれています。

特に記録に残る有名な留学生としては、吉備真備や僧・玄昉などがいます。彼らは唐の先進的な文化や知識を学び、後に日本に帰国してその知識を広めることに大きく貢献しました。また、阿倍仲麻呂のように唐に留まり、現地で活躍した人物もいます。遣唐使の一部として派遣されたこれらの留学生たちは、日本と中国の文化交流の架け橋となりました。

遣唐使はどんな船で唐に渡った?

遣唐使が使用した船は、当時の日本の造船技術を反映したもので、「遣唐使船」と称されます。これらの船は大きな耐海性を持ち、長距離の航海に耐えられる設計がされていました。

具体的には、遣唐使船は多くの場合、木造で平底の大型船であり、船首と船尾が高く持ち上がっているのが特徴です。これにより、高波にも対応できる設計となっていました。船体は複数の甲板を持ち、大量の物資や人員を運ぶことが可能でした。また、航海技術の向上とともに、船はより大型化し、安定性が向上しました。

遣唐使の船は通常、「四船」と呼ばれる4隻で構成されることが多かったです。これらの船は、日本から中国への長い航海で使用され、時には朝鮮半島を迂回する北路を取ったり、直接東シナ海を横断する南路を取るなど、ルートに応じて使い分けられました。

航海は非常に危険で、しばしば難破や遭難が発生しましたが、これらの船によって多くの使節団や学者が唐に渡り、日本に多大な文化的貢献をもたらしました。

阿倍仲麻呂とその役割

特に注目されるのは、阿倍仲麻呂のような留学生の存在です。717年、彼は第13回遣唐使の一員として唐に渡り、そのまま中国に留まることを選びました。仲麻呂は「朝衡」と名乗り、唐の玄宗帝に仕え、日本への郷愁を詩に詠んでいます。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」という一節は、日本に思いを馳せる彼の心情を今に伝えています。彼の生涯は、日中交流の歴史の中で特異な存在として記憶されています。

遣唐使の文化的・政治的影響

遣唐使は、唐から多くの技術や知識が日本にもたらされた重要な手段でした。唐の律令制度や仏教の教えが導入され、日本の政治体制や文化の発展に大きな影響を与えました。特に、天平文化の隆盛はこれらの交流によって花開いたと言えるでしょう。

このように、遣唐使は日本が唐から直接影響を受け、国際的な視野を広げた象徴的な存在であり、その活動は日本の歴史において重要な節目となりました。その終焉は、内政の安定と海外との関係悪化に伴い、必然的なものであったとされていますが、その歴史的意義は計り知れないものがあります。