鎮魂帰神とは?明治政府に禁じられたという説は本当か|審神者・本田親徳・大本まで解説

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神社の世界では、今でも「鎮魂」という言葉が使われます。11月22日には宮中で鎮魂の儀が行われ、石上神宮でも同じ日に鎮魂祭が斎行されます。ところが「帰神」という言葉は、まず聞きません。
もともとこの二つは、鎮魂帰神(ちんこんきしん)という一続きの言葉でした。明治から大正にかけて、多くの人がこれを学びました。海軍の軍人も、知識人も、地方の名士も熱心に取り組みました。それが今、片方だけが宮中の祭りとして残り、もう片方はほとんど消えています。
何が起きたのでしょうか。よく「明治政府が禁止したから」と説明されます。この記事では、その説明がどこまで正確なのかを、実際の法令にあたりながら確かめます。そのうえで、鎮魂と帰神の運命がなぜ正反対に分かれたのかを考えていきます。
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鎮魂帰神とは何でしょうか
鎮魂帰神は、性格の異なる二つの行法を組み合わせた言葉です。まずここを分けて理解する必要があります。
| 要素 | 読み | 行うこと | 向き |
|---|---|---|---|
| 鎮魂 | ちんこん/みたましずめ | 離れかけた魂を身体につなぎとめ、生命力を活性化させる | 内向き。自分の魂を整える |
| 帰神 | きしん/かむがかり | 神霊を人に降ろし、その言葉を受ける | 外向き。外から招き入れる |
| 審神者 | さにわ | 降りてきたものの正体と真偽を問いただし、判定する | 検証。降ろす人とは別の役 |
注目していただきたいのは三段目です。神霊を降ろす人と、それを見極める人が別に立てられています。降ろした本人が「これは本物です」と言うことは許されません。この分業こそ、日本の神懸かりの伝統でもっとも独特な点だと筆者は考えています。

鎮魂には二つの系統があります
鎮魂という語には、方向の違う二つの意味が同居しています。ひとつは魂振(たまふり)で、弱った魂を揺すって活気づけるもの。もうひとつは魂鎮(たましずめ)で、遊離しそうな魂を身体に留めるものです。前者が強壮、後者が固定にあたります。
現代語の「鎮魂」は、亡くなった人の霊を慰める意味で使われることがほとんどです。鎮魂歌、鎮魂の祈りといった使い方です。しかし神道の本来の鎮魂は、生きている人の魂を対象にします。ここは誤解されやすいところです。宮中の鎮魂の儀も、天皇の御魂の安泰を祈るものであって、死者のための儀式ではありません。
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鎮魂は古代からつづく宮中の祭りです
鎮魂祭(ちんこんさい/みたましずめのまつり)は、律令に定められた古い祭祀です。もとは旧暦11月の2度目の寅の日に行われ、太陽暦になってからは11月22日に営まれています。翌23日が新嘗祭ですから、収穫の大祭の前夜に、天皇の御魂を整える祭りが置かれている構造です。
この祭りの由来として語られるのが、天岩戸の前で舞った天鈿女命です。その子孫とされる猿女君が、古代の鎮魂祭で所作を務めたと伝えられます。神楽の起源と重なる話であり、鎮魂が音と動きをともなう行為だったことがうかがえます。
宮中と同じ日に鎮魂祭を行う神社
| 神社 | 所在 | 関わりの深い伝承 |
|---|---|---|
| 石上神宮 | 奈良県天理市 | 物部氏の伝えた十種神宝と布留御魂大神 |
| 彌彦神社 | 新潟県弥彦村 | 天香山命を祀り、古来の鎮魂の作法を伝える |
| 物部神社 | 島根県大田市 | 宇摩志麻遅命を祀り、鎮魂祭を特殊神事とする |
いずれも物部氏に連なる社である点が共通しています。鎮魂の技術は、宮中と物部の系統によって伝えられてきたと考えてよいでしょう。
十種神宝と「布留の言」
鎮魂の中心にあるのが、饒速日命が天津神から授かったとされる十種神宝(とくさのかんだから)です。鏡二種、剣一種、玉四種、比礼三種の十品からなります。これを振り動かしながら唱えるのが、いわゆる布留の言です。
ひふみよいむなやこと、と数を唱え、「布留部(ふるべ)、由良由良止(ゆらゆらと)、布留部」と続けます。数を数え、物を揺らす。それだけの、きわめて単純な作法です。これらの伝承は『先代旧事本紀』に記されています。
ここで筆者が興味深く思うのは、鎮魂に難解な教義がまったく必要とされない点です。数を唱え、鳴らし、揺らす。子どもでもできる所作が、律令の時代から国家の祭祀として続いてきました。神道が理屈より作法を重んじてきたことの、ひとつの証といえるのではないでしょうか。
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帰神を体系化した本田親徳
一方の帰神は、古代から神懸かりとして行われてきたものの、まとまった技法として整理されたのは幕末から明治にかけてでした。それを行ったのが本田親徳(ほんだちかあつ)です。
1822年に薩摩に生まれ、1889年に没した国学者です。若い頃に狐憑きとされる少女を目にし、神懸かりの真偽を見極める術を確立しようと志したと伝えられます。この逸話は後世の伝承として語られるもので、本人の記録として確認できるものではありません。ただ、彼の関心がどこにあったかはよく表しています。降ろすことより、見極めること。それが出発点でした。
本田は『難古事記』『道之大原』などを著し、鎮魂と帰神を組み合わせた体系を組み立てました。神霊にも段階があり、正神もあれば動物霊や邪霊もあると分類し、審神者がそれを問いただす手順を定めています。
本田から大本へ至る系譜
| 人物 | 生没 | 役割 |
|---|---|---|
| 本田親徳 | 1822年から1889年 | 鎮魂帰神の体系を確立。審神者の手順を整理 |
| 長沢雄楯 | 1858年から1940年 | 本田の高弟。静岡で稲荷講社を主宰し、法を伝える |
| 出口王仁三郎 | 1871年から1948年 | 1898年に長沢に入門。のちに大本で大々的に実践 |
この三代で、鎮魂帰神は一部の国学者の学問から、多くの人が実際に体験する行法へと変わりました。とくに大本での広がりは大規模で、大正の初めには海軍の軍人や大学関係者までが門をたたいたと記録されています。
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明治政府は鎮魂帰神を禁止したのでしょうか
ここが本題です。結論から申し上げます。
「鎮魂帰神を禁ずる」という法令はありません
鎮魂帰神という語を名指しして禁じた法令は、確認できません。したがって「明治政府が鎮魂帰神法を禁止した」という言い方は、そのままでは不正確です。
ただし、これで話が終わるわけではありません。名指しの禁止はなくても、実際に行える余地は三方向から塞がれていきました。順に見ていきます。
封じられていった三つの経路
| 年 | できごと | 帰神に与えた影響 |
|---|---|---|
| 1871年 | 神社は国家の宗祀と位置づけられる | 神社が宗教活動から切り離され、神職が神懸かりを行う制度的な余地が消えました |
| 1873年 | 教部省達第2号。梓巫、市子、憑祈祷、狐下げなどを禁止 | 民間で口寄せや憑依を業とすることが正面から禁じられました |
| 1908年 | 警察犯処罰令。内務省令第16号 | 祈祷や符呪で人を惑わす行為が、警察の取締り対象になりました |
1873年1月15日に出された教部省達第2号は、通称で巫女禁断令とも呼ばれます。梓巫(あずさみこ)は梓弓を鳴らして霊を呼ぶ巫女、市子(いちこ)は口寄せをする者、憑祈祷は憑依による祈祷、狐下げは憑いた狐を落とす所業を指します。いずれも、帰神と実質的に同じ領域です。
1908年の警察犯処罰令は、第2条第17号で、みだりに吉凶禍福を説き、祈祷や符呪を行い、あるいは守札の類を授けて人を惑わした者を、拘留または科料に処すと定めました。この規定は戦後、軽犯罪法の施行にともなって廃止されるまで生きています。
つまり近代日本は、神懸かりそのものを思想として否定したというより、それを人に対して行うことを、警察行政の領域で押さえ込んだのです。信じるのは自由だが、それで人を動かしてはいけない、という線の引き方でした。

なぜ国家はこれを嫌ったのでしょうか
理由は二つあったと筆者は考えています。
ひとつは、権威の分散です。誰にでも神が降りてよいのなら、神の言葉は無数に生まれます。国家が天皇を中心とする祭祀の体系を整えようとしていた時期に、各地で「神のお告げ」が乱立することは、統治の観点から見過ごせません。神の言葉の出どころを一本化したい国家にとって、帰神は制御しにくい技術でした。
もうひとつは、対外的な体面です。明治の日本は不平等条約の改正を悲願とし、文明国として認められることに神経を使っていました。市中で狐憑きを落とす光景は、その目標にとって都合が悪い。廃仏毀釈から巫女禁断令に至るまで、この時期の宗教政策には、外からどう見えるかという意識が強く働いています。

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大本での爆発的な広がりと、自らの手による中止
禁止令が出たあとも、帰神は消えませんでした。むしろ大正期に、これまでにない規模で広がります。舞台となったのが大本です。
大本は、出口なおの神懸かりと筆先に始まり、長沢雄楯から鎮魂帰神を学んだ出口王仁三郎が加わって組織化されました。信者が実際に神霊と交わる体験を得られる点は強い訴求力を持ち、大正の初めには知識層にも急速に広まっていきます。
1921年、大本は不敬罪と新聞紙法違反で検挙されます。第一次大本事件です。ただし、ここは正確に申し上げなければなりません。この事件で問われたのは、鎮魂帰神という行法そのものではありませんでした。
やめる判断は、外からではなく内から出ました
鎮魂帰神の実践に区切りをつけたのは、大本自身でした。理由として教団側が挙げているのは、次のような点です。邪霊に憑かれる危険があること。そして修行者が霊的な現象そのものに夢中になってしまい、本来の信仰へ進めなくなること。
王仁三郎は同じ1921年の10月から『霊界物語』の口述を始めます。神懸かりで直接言葉を降ろす形から、物語として語り、書き残す形へと軸足を移したわけです。
筆者はこの転換を重く見ています。もっとも熱心にこの行法を広めた当事者が、危険だから、そして目的からそれるからという理由で自ら止めた。外部からの弾圧の話より、こちらのほうが帰神という技術の本質をよく語っているように思います。

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筆者の考察 なぜ鎮魂は残り、帰神は消えたのか
検証を必要とするかどうかの差
二つを並べると、性格の違いがはっきりします。
| 観点 | 鎮魂 | 帰神 |
|---|---|---|
| 対象 | 自分の魂 | 外から来る神霊 |
| 結果の扱い | 本人が整うだけで完結する | 降りた言葉を他人に伝えることになる |
| 真偽の判定 | 必要ない | 審神者による判定が不可欠 |
| 失敗したとき | 効果がないだけで終わる | 偽の神託が広まり、人が動いてしまう |
| 現在の位置 | 宮中と一部の神社に存続 | 公的な祭祀からは消滅 |
鎮魂は、うまくいかなくても誰も傷つきません。帰神は、間違えると人が動きます。この非対称が、二つの運命を分けた最大の要因だと筆者は考えています。
審神者が失われたことのほうが大きい
そのうえで、もうひとつ申し上げたいことがあります。帰神が衰えた本当の理由は、禁止令よりも、審神者という役割が続かなかったことにあるのではないか、ということです。
降ろす人は、素質と訓練でどうにかなります。しかし見極める人には、記紀や祝詞の知識、神々の系譜への理解、そして何より、降りた相手が誰であっても問いただす胆力が要ります。育てるのに時間がかかり、しかも目立ちません。行法が急速に広まるとき、まっさきに足りなくなるのはこちらの側です。
古代の人々は、神懸かりに必ず審神者を添えました。それは、神の言葉を疑ってよいと考えていたからです。信じることと確かめることを両立させる仕組みを、最初から組み込んでいたわけです。帰神が形骸化したのは、この片方だけが残って、もう片方が抜け落ちたときだったのでしょう。
現代に置き換えてみると
この構図は、今の私たちにそのまま当てはまります。出どころのわからない情報が、断定的な語り口で流れてきます。心地よい言葉ほど、確かめずに受け取ってしまいます。降ろす側は無数にあり、見極める側が足りていません。
神道が千年以上前から審神者という役職を置いていたという事実は、この点で示唆に富んでいると思います。ありがたい言葉が来たとき、まず名を問う。どこから来たのか、根拠は何かをたずねる。それは疑い深さではなく、作法だったのです。
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鎮魂帰神についてよくある質問
鎮魂帰神法は、今でも行われているのですか
鎮魂については、宮中の鎮魂の儀、石上神宮や彌彦神社などの鎮魂祭という形で続いています。帰神のほうは、神社神道の公的な祭祀としては行われていません。本田親徳の系統を汲む団体や個人が伝えていると称する例はありますが、内容や指導者の資質はまちまちですので、慎重に見るべき領域です。
鎮魂と黙祷は同じものですか
別のものです。黙祷は近代に広まった、死者を悼むための沈黙です。神道の鎮魂は、生きている人の魂を身体に安定させるための行為であり、鳴り物や所作をともないます。静かに祈るという点だけが似ているため、混同されやすくなっています。
自分で鎮魂法や帰神を試してもよいのでしょうか
姿勢を正し、呼吸を整え、静かに座るという範囲であれば、心身を落ち着ける行いとして差し支えないでしょう。一方で、意識を変性させて何かを降ろそうとする類の行法は、独学でおすすめできません。大本が中止の理由に挙げたとおり、精神面の変調につながる危険が指摘されてきました。体調や気分に異変を感じた場合は中止し、必要に応じて医療機関にご相談ください。

神社の鎮魂祭は参列できますか
社によって扱いが異なります。宮中の鎮魂の儀は非公開です。神社の鎮魂祭も、特殊神事として一般の参列を制限している場合があります。関心がある場合は、その年の斎行日と公開の可否を、当該神社に直接お問い合わせいただくのが確実です。
鎮魂帰神と呪術は違うものですか
目的が異なります。呪術は、こちらの意図を通すために働きかけるものです。帰神は、向こうの言葉を受け取るものです。前者は能動、後者は受動という違いがあります。ただし実際の民間信仰では両者が入り混じっており、明治政府がまとめて取り締まったのも、この境目が現場では曖昧だったからでした。
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まとめ
鎮魂帰神は、自分の魂を整える鎮魂と、神霊を降ろす帰神を組み合わせた行法です。鎮魂は律令の時代から宮中の祭りとして続き、現在も11月22日に営まれています。帰神は幕末に本田親徳が体系化し、長沢雄楯を経て出口王仁三郎に伝わり、大本で大きく広がりました。
これを名指しで禁じた法令はありません。しかし神社の非宗教化、1873年の教部省達、1908年の警察犯処罰令によって、行える場所は次第に失われました。そして最後には、もっとも熱心だった大本自身が、危険であるとして中止を選びます。
残ったのは、数を唱えて物を揺らすという、驚くほど素朴な鎮魂の所作でした。派手なものから消え、地味なものが残る。神道の歴史を見ていると、しばしばこの順序に出会います。











