大本と出口王仁三郎とは?国家が二度潰した宗教|ダイナマイトで消された聖地と、戦後宗教への影響

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1936年5月、京都府亀岡市。ひとつの宗教施設が、警察の手でダイナマイトによって爆破されました。使われた爆薬は1500発ともいわれます。石垣の石は再び使われないよう日本海へ沈められ、土地は二束三文で買い上げられて更地になりました。
日本の近代史において、国家がこれほど徹底的に破壊した宗教施設は、ほかに例がありません。標的となったのが、大本(おおもと)です。
しかもこの事件には後日談があります。裁判の末、国は主要な罪状を立証できませんでした。壊すだけ壊しておいて、根拠が認められなかったのです。
この記事では、字の書けない一人の女性の神懸かりから始まった大本の歩み、それを組織化した出口王仁三郎という人物、二度にわたる弾圧の実際、そして戦後の宗教界に残した影響までを整理します。教義の当否を論じるのではなく、近代日本の宗教史のなかでこの教団が置かれた位置を見ていきます。
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大本とはどのような教団でしょうか
ここでは宗教法人大本について、抜粋した情報を掲載しています。詳しくは、宗教法人大本の公式サイトをご確認ください。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 始まり | 1892年、出口なおの神懸かり |
| 開祖 | 出口なお(1837年から1918年) |
| 聖師 | 出口王仁三郎(1871年から1948年) |
| 本部 | 京都府綾部市(梅松苑)と亀岡市(天恩郷) |
| 系統 | 神道系。教派神道十三派には含まれません |
| 主な聖典 | 『大本神諭』(お筆先)、『霊界物語』 |
| 現在 | 宗教法人として活動を継続 |
ひとつ補足しておきます。亀岡の本部が置かれている場所は、明智光秀が築いた亀山城の跡地です。大本は大正期にこの城跡を取得し、聖地として整備しました。第二次の弾圧で失いますが、戦後にあらためて取り戻しています。戦国武将の城跡に近代の宗教が入り、そこを国家が爆破した。土地の来歴としては、なかなか例のないものです。
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開祖・出口なお 字の書けない56歳の女性から始まりました
出口なおは1837年、丹波の福知山に生まれました。生涯は苦難の連続です。婿養子に迎えた夫は放蕩の末に働けなくなり、家は困窮しました。子どもたちも不幸に見舞われ、なお自身はぼろ買いや糸繰りで生計を立てていました。学問の機会はなく、読み書きはほとんどできませんでした。
1892年の旧正月、56歳のなおに突然の神懸かりが起こります。腹の底から響く声で、自らを艮の金神(うしとらのこんじん)と名乗る神が語りはじめました。
周囲は当然、正気を失ったと受け取ります。なおは一時、座敷牢に入れられました。そのなかで、釘で柱に文字を刻みはじめたと伝えられます。やがて筆を持ち、以後およそ26年にわたって書き続けた膨大な文書が、大本神諭のもとになるお筆先です。半紙にして1万枚を超えるといわれます。
読めない人が書いた、という現象をどう見るか
お筆先は、ひらがなを主体とした独特の文体で書かれています。読み書きを習っていない人がこれだけの分量を書いたことは、大本において神の証とされてきました。
筆者の見方を申し上げます。神が書かせたのかどうかは、外から判定できることではありません。ただ、書けないはずの人が書くという現象そのものは、日本の宗教史でくり返し現れてきたものです。近いところでは『日月神示』の岡本天明の例があり、この人物も大本に関わった経歴を持っています。何かが人を通して文字になるという出来事は、この国では珍しくないのです。
艮の金神とは何者か
ここは大本を理解するうえで欠かせない部分です。艮(うしとら)とは、方位でいう北東を指します。陰陽道や民間の方位信仰において、北東は鬼門とされ、金神はその方角にあって祟りをなす恐ろしい神とされてきました。要するに、避けるべき神、忌むべき神です。
その忌み嫌われてきた神が、自分こそ本来の主宰神であり、長らく隅に押しやられていたのだと名乗り出た。これが大本の出発点にある構図です。そして「三千世界一度に開く梅の花」という言葉とともに、世の立替え立て直しが説かれました。
筆者は、この構図に日本の宗教が持つひとつの型を見ます。追いやられた側、祟るとされた側が、実は本来の力を持っていた、という語り方です。菅原道真の御霊が学問の神になり、平将門の首塚が今も丁重に祀られているのと、根はつながっています。恐れられるものと敬われるものが裏表になっている。艮の金神は、その系譜のもっとも近代的な現れだったといえるのではないでしょうか。
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聖師・出口王仁三郎 理論と芸術を持ち込んだ人
もう一人の中心人物が、出口王仁三郎です。1871年、京都府の穴太村、現在の亀岡市に生まれました。本名を上田喜三郎といいます。
1898年、27歳のときに高熊山で一週間にわたる霊的な体験をしたと伝えられます。その後、静岡の長沢雄楯のもとで鎮魂帰神を学びました。長沢は幕末の国学者・本田親徳の高弟であり、王仁三郎はここで神霊を降ろし、その真偽を見極める技法の系譜に連なることになります。

1899年、王仁三郎は綾部のなおのもとを訪ねます。やがて、なおの五女すみと結婚し、出口姓を名乗るようになりました。以後、なおのお筆先を体系化し、教団としての組織を整えたのが王仁三郎です。
二人は驚くほど正反対でした
| 観点 | 出口なお | 出口王仁三郎 |
|---|---|---|
| 出自 | 丹波福知山の貧家。読み書きを習っていない | 亀岡の貧農だが学才があり、教員も務めた |
| 役割 | 神の言葉を受ける器 | 受けた言葉を解釈し、体系化する |
| 説く内容 | 厳格な立替え。世の建て直しを迫る | 大らかな救い。芸術や国際交流にも広げる |
| 気質 | 厳しく、妥協しない | 諧謔を好み、人を惹きつける |
| 残したもの | お筆先およそ1万枚 | 『霊界物語』全81巻83冊、書、和歌、陶芸 |
この対比は、鎮魂帰神における役割分担とそのまま重なります。神霊を降ろす人と、降りたものを受け止めて意味づける審神者。神道の神懸かりが古代から必要としてきた二人一組の形が、近代の教団にも現れているわけです。

二人は対立もしていました
美談として語られがちな部分ですが、実際には摩擦がありました。なおは王仁三郎のやり方をたびたび疑い、王仁三郎が綾部を離れる時期もあります。厳格な立替えを説くなおと、包容的で自在な王仁三郎とでは、目指すところが完全には一致しなかったのです。
この不一致を隠さずに見ておくことは大切だと筆者は考えています。一枚岩の宗教運動というものは、実際にはほとんど存在しません。二人の緊張関係があったからこそ、教えが単なる予言でも単なる思想でもない形にまとまったのだと見ることもできます。
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なぜ二度も潰されたのでしょうか
| 観点 | 第一次大本事件 | 第二次大本事件 |
|---|---|---|
| 年 | 1921年 | 1935年 |
| 罪名 | 不敬罪、新聞紙法違反 | 不敬罪、治安維持法違反 |
| 規模 | 幹部の検挙と一部の神殿取り壊し | 全国で多数を検挙。聖地を完全に破壊 |
| 結末 | 1927年、大赦により免訴 | 上告審で治安維持法違反は認められず、不敬罪も敗戦後に免訴 |
| 特徴 | 言論への取締りが中心 | 宗教団体への治安維持法の初適用 |
第二次弾圧の徹底ぶり
1935年12月8日、500人規模の警官隊が綾部と亀岡の聖地に踏み込みました。当局は信者が武装していると想定していましたが、実際には竹槍一本すら見つからず、信者は一切抵抗しなかったと記録されています。
その後の経過は、数字で見ると異様です。押収された証拠品はおよそ5万点。検挙されたのは987人、そのうち318人が送検され、61人が起訴されました。取り調べの過程で、起訴された61人のうち16人が命を落としています。
1936年には、王仁三郎夫妻が所有していた5万坪の土地が、時価80万円相当とされながら6000円で強制的に買い上げられました。同年5月11日から破壊が始まり、神殿はダイナマイトで跡形もなく崩されます。石は再利用を防ぐために日本海へ捨てられました。
そして1942年、上告審において治安維持法違反は認められませんでした。残る不敬罪も、敗戦後の1945年に免訴となります。結果として、あれだけの破壊の根拠となった罪は、法廷では成立しなかったのです。
国家は何を恐れたのか
直接のきっかけとされるのが、昭和神聖会です。1934年に大本の外郭団体として発足し、軍人や右翼団体とも連携しながら、政治的な運動を展開しました。1935年の初めには、皇族を中心とする内閣の樹立を求める署名運動まで行っています。
ここが決定的だったと筆者は考えています。宗教団体が、天皇のあり方や政府の形について具体的な提案を掲げた。国家にとって耐えがたいのは、教義の内容そのものよりも、神の名において体制の設計に口を出されることでした。
加えて、大本が説いた立替え立て直しは、現在の世の終わりを前提とする教えです。国家が「万世一系の永続」を国の柱に据えていた時期に、世が一度ひっくり返ると説く集団が数十万人規模で存在した。この二つは、原理として並び立ちません。
明治以降の日本は、神社を国家の宗祀として宗教の枠外に置き、神の言葉の出どころを一本化してきました。大本はその一本化の外側で、神が直接語る場をつくってしまった。弾圧の激しさは、教団の危険性の証明というより、国家の側の神経の細さを映していると見るほうが、筆者には理解しやすく思われます。
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芸術家としての出口王仁三郎
大本を語るとき、弾圧の話だけで終わってしまうことが多いのですが、王仁三郎という人物のもうひとつの面に触れないのは惜しいと思います。
彼は「芸術は宗教の母なり」という言葉を残しました。神が創った世界そのものが芸術作品であり、美を通してこそ神に近づけるという考え方です。実際、和歌を数十万首詠み、書を大量に残し、陶芸にも打ち込みました。
とくに知られるのが、耀盌(ようわん)と呼ばれる楽焼の茶碗です。前期と後期があり、耀盌の名で呼ばれるのは1944年の暮れから1946年3月にかけて作られた後期の作品群を指します。星の輝きになぞらえて名付けられたと伝えられ、哲学者の谷川徹三をはじめとする人々が高く評価しました。
ここで年代に注目してください。1944年の暮れといえば、王仁三郎が長い獄中生活を経て保釈された後の時期にあたります。聖地は爆破され、教団は壊滅し、国は戦争の末期にありました。その状況で、この人は茶碗を焼いていたのです。
報復でも弁明でもなく、色を出すことに向かった。筆者はこの選択に、この人物の性格がもっともよく表れていると感じます。壊された側が何をつくり直すかで、その集団の本質が見える。そういうことなのだろうと思います。
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大本から広がっていった人と教団
大本を近代史のなかで重く見る理由は、もうひとつあります。この教団を経由した人々が、戦後日本の宗教や文化に大きな影響を残しているからです。
| 人物 | 大本との関わり | その後 |
|---|---|---|
| 谷口雅春 | 大本の専従として機関誌に携わる | 生長の家を創始 |
| 岡田茂吉 | 大本の幹部を務める | のちに世界救世教へ至る流れをつくる |
| 岡本天明 | 大本に関わった経歴を持つ | 『日月神示』を自動書記で記す |
| 植芝盛平 | 綾部に移り住み、王仁三郎に随行 | 合気道を創始 |
合気道の植芝盛平が大本の信者であり、1924年の大陸行きにも同行していたことは、意外に知られていません。武道と宗教が近代日本のある時期に交差していたことを示す、興味深い事実です。
大本は、教団としての規模で見れば大きいとはいえません。しかし影響の広がりという点では、近代日本の宗教のなかでも特異な位置にあります。苗床のような役割を果たした、といってよいでしょう。
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筆者の考察 大本は近代神道史の鏡です
押さえつけた分だけ、外へ噴き出しました
明治国家は、神社を宗教ではないものとして扱い、神職から布教や祈祷の役割を切り離しました。神は国家の祭祀のなかにおさまり、個人に直接語りかけることはなくなったはずでした。
ところが人の側の求めは消えません。神と直接つながりたい、言葉を聞きたい、救いを得たいという願いは、制度の外へ場所を求めます。大本をはじめとする教団が明治から大正にかけて次々と現れたのは、この圧力の裏返しだったと筆者は考えています。
神社を宗教から外したことで、神道の宗教的な部分が神社の外に出ていった。そう捉えると、近代の新宗教の隆盛と、神社の静けさは、同じ一枚のコインの表と裏に見えてきます。

見極める役が追いつきませんでした
もうひとつ、鎮魂帰神をめぐる論点があります。神懸かりには、それを問いただす審神者が要るという話です。
大本が急速に広がった時期、実際に神を降ろす体験をした人は数多くいました。しかし、降りたものの正体を判定できる人が、同じ速さで育ったとは考えにくいところです。大本自身がのちに鎮魂帰神の実践を制限したのも、この不均衡を認めたからでしょう。
降ろす力は増やせても、見極める力は簡単には増えません。これは近代の教団に限らず、情報が過剰に流れる現在にもそのまま当てはまる問題だと思います。
評価は保留し、事実を残す
最後に、姿勢について書いておきます。大本の教えが正しいかどうかを、筆者は判定しません。それは信仰の領域であり、外から採点する種類のものではないからです。
ただ、事実として記録しておくべきことはあります。国家がひとつの宗教団体を、法廷で立証できないままダイナマイトで消し去ったこと。そのとき信者は抵抗せず、取り調べのなかで人が死んだこと。そして戦後、罪は成立しなかったこと。
信仰をどう見るかは人それぞれでよいと思います。しかし、この経過を知らないまま近代の神道を語ることはできません。大本は、近代日本が信仰をどう扱ったかを映す鏡なのです。

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大本と出口王仁三郎についてよくある質問
大本と大本教は違うのですか
教団自身は「大本」と称しています。「大本教」は主として外部やかつての報道で用いられてきた呼び方です。教団の名称は皇道大本などと変遷しており、現在は大本が正式な呼称です。
大本は教派神道十三派に含まれますか
含まれません。十三派は明治期に公認された教派の枠であり、大本の成立と広がりはそれより後になります。ただし、教派神道の団体が集う連合組織には加盟しています。
『霊界物語』とはどんな本ですか
王仁三郎が1921年10月から口述を始めた大部の著作で、全81巻83冊にのぼります。神々の世界を舞台にした物語の形をとりながら、教えが語られる構成です。神懸かりで直接に神の言葉を降ろす形式から、語って書き残す形式へ移行した点に、この著作の位置づけがあります。
出口なおの神懸かりは、神社の神事と同じものですか
別のものです。神社の祭祀は定められた次第にしたがって行われる儀式であり、神職が神懸かりすることはありません。なおの場合は本人の意図によらず起こった現象であり、古代の巫(かんなぎ)に近い性格を持ちます。神道という同じ言葉の中に、制度としての祭祀と、直接的な神懸かりという二つの層があると理解するとよいでしょう。
綾部や亀岡の聖地は今も見学できますか
綾部の梅松苑、亀岡の天恩郷ともに、現在は再建されています。公開の範囲や見学の可否は時期によって異なりますので、訪問を考える場合は事前に確認されることをおすすめします。
まとめ
大本は、1892年に出口なおの神懸かりから始まり、出口王仁三郎によって教団の形を与えられた神道系の宗教です。艮の金神という、忌み嫌われてきた神が名乗り出るという構図から出発し、世の立替え立て直しを説きました。
1921年と1935年の二度にわたって国家の弾圧を受け、二度目では聖地がダイナマイトで破壊されます。しかし裁判では治安維持法違反が認められず、罪に問われないまま終わりました。
そしてこの教団を通った人々が、戦後の宗教や武道の世界へ散っていきました。教えに賛同するかどうかとは別に、近代日本が信仰をどう扱ったかを知るうえで、大本は避けて通れない存在だと筆者は考えています。
参考:宗教法人大本の公式サイト











