教派神道十三派とは?一覧表でわかる13教団と、神社神道と分かれた「たった一行」の通達

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1881年1月、神道界を二分する大論争が起きました。神道の中心となる神殿に、どの神様をお祀りするのか。天照大御神を中心とすべきだという伊勢派と、大国主大神も加えるべきだという出雲派が、正面から対立したのです。
全国から118名が集まった会議でも決着がつかず、最終的には明治天皇の裁定を仰ぐことになりました。神道史上、祭神論争と呼ばれる出来事です。
この対立の渦中で、神道は二つに分かれていきます。祭りを担う神社神道と、教えを説く教派神道です。そして明治期を通じて13の教派が公認されました。これが教派神道十三派です。
この記事では、13派の一覧を成立順に整理し、系統別の分類、なぜ神社と分かれることになったのか、そして戦後にどう変わったのかまでを見ていきます。神社に行くだけでは見えてこない、もうひとつの神道の姿です。
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教派神道とは何でしょうか
教派神道とは、明治期に国から公認された、神道を教えとして説く教団の総称です。神社神道と対比される言葉になります。
| 観点 | 神社神道 | 教派神道 |
|---|---|---|
| 中心にあるもの | 祭祀。定められた次第に従って祭りを行う | 教え。教義を説き、信者を導く |
| 戦前の扱い | 国家の宗祀。宗教ではないとされた | 宗教。内務省では宗教局が所管 |
| 教祖 | 基本的に存在しない | 教祖を持つ教団が多い |
| 布教 | 行わない | 行う |
| 葬儀 | 神職は関与を制限された | 教団として行う |
| 財政 | 上位の社は国費。多くは氏子の負担 | 信者の献金 |
同じ神道でありながら、役所の窓口からして別でした。神社は神社局、教派は宗教局。この分離は1900年に制度化されます。
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分かれ道になった、たった一行の通達
神社と教派が分かれた決定的な瞬間は、1882年1月24日に出された内務省達乙第7号です。内容は、驚くほど短いものでした。
今後、神官は教導職を兼ねることをやめ、葬儀に関係しないものとする。
教導職とは、人々を教え導く役職のことです。つまりこの一行は、神職に対して二者択一を迫りました。神社で祭りを担うのか、それとも教えを説く側に回るのか。両方はできません、というわけです。
出雲大社の宮司は、宮司を辞めました
この選択を、もっとも劇的な形で行ったのが千家尊福(せんげたかとみ)です。出雲大社の宮司であり、祭神論争では出雲派の中心人物でした。
彼は宮司の職を弟に譲り、自らは出雲大社教の管長となる道を選びます。千年以上続く大社の宮司の座を降りて、教えを説く側に立ったのです。それだけの覚悟を求める通達でした。

余談ですが、この千家尊福はのちに東京府知事や司法大臣を務めています。さらに、お正月に歌われる唱歌「一月一日」の作詞者でもあります。年の始めのためしとて、で始まるあの歌です。神職から政治家になり、日本人がもっとも歌う正月の歌を書いた。近代とは、そういう振れ幅を許した時代でもありました。
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祭神論争 伊勢か、出雲か
ここで冒頭の論争に戻ります。何をめぐる争いだったのでしょうか。
争点は、神道事務局の神殿に祀る神々の顔ぶれでした。伊勢派は、天之御中主神をはじめとする造化三神と天照大御神を祀れば足りるとしました。これに対し出雲派は、大国主大神を加えるべきだと主張します。
単なる神様の数の問題ではありません。背景にあるのは、死後の世界を誰が治めるのかという問いです。平田篤胤は、亡くなった人の魂は幽冥界に入り、そこを大国主大神が主宰すると説きました。この考えに立てば、大国主大神を外すことはできません。人が死んだあとを預かる神だからです。

1881年1月、全国の官社の宮司と上級の教導職118名が集まる神道大会議が開かれましたが、まとまりませんでした。翌2月、明治天皇の勅裁によって、ようやく収拾がつきます。
筆者は、この論争が神道にとって決定的だったと考えています。神道が教義をめぐって本気で争った、数少ない事例だからです。そして争った結果、神道は教義を語ることを神社から切り離す方向へ進みました。論争が激しかったからこそ、祭りと教えを分けるしかなかった。そういう因果関係があったように見えます。
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教派神道十三派の一覧
独立が認められた順に並べます。年は、独立教派として公認された年です。
| 教派 | 読み | 教祖または初代管長 | 独立年 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 黒住教 | くろずみきょう | 黒住宗忠 | 1876年 | 岡山。朝日を拝し、天照大御神との一体を説く |
| 神道修成派 | しんとうしゅうせいは | 新田邦光 | 1876年 | 富士講や御嶽講の行者を結集して出発 |
| 出雲大社教 | いずもおおやしろきょう | 千家尊福 | 1882年 | 出雲大社を基盤とし、大国主大神を奉じる |
| 扶桑教 | ふそうきょう | 宍野半 | 1882年 | 富士山信仰の系統 |
| 實行教 | じっこうきょう | 柴田花守 | 1882年 | 同じく富士山信仰の系統 |
| 神道大成教 | しんとうたいせいきょう | 平山省斎 | 1882年 | 諸講社を糾合。儒教的な性格を持つ |
| 神習教 | しんしゅうきょう | 芳村正秉 | 1882年 | 禊や鎮魂の行法を重んじる |
| 御嶽教 | おんたけきょう | 平山省斎 | 1882年 | 木曽御嶽山の信仰を母体とする |
| 神理教 | しんりきょう | 佐野経彦 | 1894年 | 福岡。御嶽教から独立。復古神道の系統 |
| 禊教 | みそぎきょう | 井上正鉄 | 1894年 | 禊と呼吸の行法を中心に据える |
| 金光教 | こんこうきょう | 赤沢文治(金光大神) | 1900年 | 岡山。天地金乃神を奉じ、取次を重んじる |
| 天理教 | てんりきょう | 中山みき | 1908年 | 奈良。天理王命を奉じる |
| 神道大教 | しんとうたいきょう | 稲葉正邦 | 1886年 | 神道事務局が改組したもの。他の教派の母体 |
表を見て気づかれたかもしれませんが、神道大成教と御嶽教の初代管長は同じ平山省斎です。氷川神社の大宮司だった人物で、二つの教派を率いました。当時の教派がいかに人脈で成り立っていたかがうかがえます。
最後に置いた神道大教は、順序としては特殊です。もともと神道事務局という半ば公的な中央機関でしたが、1886年に一教派へと組織を改めました。金光教も天理教も禊教も、ここから独立しています。いわば母体です。
1908年、母体から3万人が9千人になりました
この母体の性格を象徴する数字があります。1908年に天理教が独立したとき、天理教の教師はおよそ21000人。その結果、神道大教の教師数は30000人ほどから9000人ほどへ激減しました。
つまり神道大教の規模の大半は、独立を待つ教団を抱えていたことで成り立っていたわけです。制度上どこかに所属しなければならないため、いったん母体に入り、条件が整えば出ていく。教派神道の成立は、こうした出入りの歴史でもありました。
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系統で分けるとわかりやすくなります
13派を並べただけでは性格がつかみにくいので、成り立ちごとに整理します。文化庁の分類にならった区分です。
| 系統 | 該当する教派 | 成り立ち |
|---|---|---|
| 復古神道系 | 神道大教、神理教、出雲大社教 | 国学と復古神道の流れを汲み、記紀の神々を体系的に祀ります |
| 山岳信仰系 | 扶桑教、實行教、御嶽教 | 富士山や御嶽山の講社が母体。登拝と行が中心にあります |
| 儒教系 | 神道大成教、神道修成派 | 修身や道徳の色合いが強く、儒教的な徳目を説きます |
| 禊系 | 禊教、神習教 | 禊、呼吸法、鎮魂といった身体を用いる行を重んじます |
| 純教祖系 | 黒住教、金光教、天理教 | 教祖個人の宗教体験から始まり、その教えが核になります |

この分類を眺めると、教派神道が何を受け皿にしたのかが見えてきます。江戸時代までの講、山への信仰、民間の行法、そして幕末に生まれた新しい教え。神社の制度に収まりきらなかったものが、ここに集まったのです。
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消えた14番目 神宮教のこと
ここは、あまり知られていない話です。実は、公認された教派は延べ14ありました。13になったのは、途中で一つが抜けたからです。
抜けたのは神宮教。伊勢神宮を母体とする教派で、1882年に独立し、神宮大麻の頒布を担っていました。
しかし矛盾が生じます。国家神道の体制が固まっていくなかで、伊勢神宮は全国の神社の頂点に位置づけられました。その伊勢が、数ある教派のひとつとして宗教局の管轄にある。しかも国家的な事業である神宮大麻の頒布を、一宗教団体が行っている。これはおかしいという批判が出たのです。
1899年、神宮教は解散し、宗教ではない財団法人の神宮奉斎会へと組織を改めます。こうして教派の数は13に落ち着きました。

ちなみに、神道事務局が神殿として建てた神宮遥拝殿は、この神宮教の所有となり、のちに東京大神宮となりました。祭神論争の舞台となった建物が、現在は縁結びで知られる神社になっている。歴史のつながり方として、なかなか味わい深いものがあります。
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教派になれなかった神道もあります
公認されなかった例も挙げておきます。陰陽道の系統である土御門神道、別名を天社神道といいます。
安倍晴明の子孫とされる土御門家が受け継いできた陰陽道は、江戸時代に垂加神道の説を取り入れて、神道としての体裁を整えていました。ところが明治政府は、占いやまじないを含むことを理由にこれを邪教とみなし、天社神道禁止令を出します。教派として認められる道は閉ざされました。
ここに、明治政府の線引きがはっきり表れています。教えを説くことは認める。しかし、吉凶を占い、まじないを行うことは認めない。同じ時期に梓巫や市子といった民間の憑依の業が禁じられたのと、まったく同じ判断基準です。
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戦後の変化と、現在の姿
1945年の神道指令によって、国が宗教を公認するという仕組みそのものが終わりました。宗教法人法のもとでは、小さな団体でも独立して法人になれます。13派という枠は、制度としての意味を失いました。

教派の集まりである教派神道連合会も、顔ぶれが変わっています。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1956年 | 大本が加盟 |
| 1959年 | 神習教が退会(1994年に復帰) |
| 1970年 | 天理教が退会 |
| 1976年 | 神道大成教が退会 |
| 現在 | 加盟は12教派 |
注目していただきたいのは天理教です。戦後、天理教は自らの教えを神道の枠から取り出す方向へ進み、1970年に連合会を退会しました。現在では、文化庁の分類においても教派神道系ではなく諸教に分類されています。
戦前、天理教や金光教が神道として教義を整えたのは、そうしなければ公認されず、弾圧を受けかねなかったという事情があります。自由になった戦後に、本来の形へ戻ったということでしょう。制度が信仰の形を変えてしまう。そのことを、この一連の動きはよく示しています。
筆者の考察 言葉を持ち続けた側の神道
教派神道は、宗教であることを選んだ神道です
神社神道は、宗教ではないという立場を受け入れる代わりに、国家の中に場所を得ました。その結果、布教も葬儀も教義もむずかしくなります。
教派神道は逆の道を選びました。宗教であることを引き受け、国の保護からは外れ、そのかわり語ることをやめませんでした。教祖がいて、教典があり、信者に説き、人を送る。宗教として当たり前のことを、当たり前に続けたのです。
どちらが本来の神道か、という問いには意味がないと筆者は思います。両方とも神道です。ただ、片方が語らなくなった時代に、もう片方が語り続けていたという事実は、記録しておく価値があります。
教派神道を知ると、神社の不思議が解けます
神社に行っても、教えの説明がほとんどありません。神職が信仰について語る場面も少ない。この不思議さは、教派神道の存在を知ると腑に落ちます。
語る役割は、制度として別の場所に移されたのです。神社に無いのではなく、明治に分けられた。その分けられた片方が、いまも全国に教会を持ち、教えを説き続けています。
神道を知りたいと思ったとき、神社だけを見ていては足りません。分かれたもう半分にも、同じ根から伸びたものが残っています。

神様の言葉を代弁したり、神降ろしをして神託(お告げ)を得るタイプに注意
神道は神様から直接教えを得たり、お導きをしてもらうということは少なく、鏡のような存在として神様に報告をしたり祈りをしたりすることを通じて、自分たちの中にある答えに気づいていくというような考え方があります。また昔から神降ろしをして神様からのお告げをお聞きする時には、審神者がついて、本当にその神様なのかを確かめるということが行われてその正当性の担保してきたと言われています。
一方で新興宗教では、偉大な神様が降臨して、今日その人がそのお告げを話すという方法が多く、それが本当に神様の発言なのか、それとも教祖が考えたことなのか判別ができないものとなっています。偉大な神様が言っているということを言われると、宗教ではなく神道として自然な形で信仰をしている人でも、なんとなく知っている神様だとありがたく信用してしまうということが起きます。
昔からこのようなことは多々あったと思いますが、今はAIやSNSなど、手段が多様化しているので改めて若い世代や情報に疎い中高年の人たちなどは注意した方が良い分野かと思います。
教派神道についてよくある質問
教派神道の教会は、神社とは違うのですか
別のものです。教派神道の施設は教会や大教会と呼ばれ、宗教法人としてその教団に属します。神社本庁の包括下にある神社とは、組織も位置づけも異なります。外見が神社に似ている施設もありますので、掲げられている名称を見ると区別しやすくなります。
出雲大社と出雲大社教は同じですか
関係は深いものの、別の組織です。出雲大社は神社であり、出雲大社教は1882年に独立した教派です。千家尊福が宮司を辞して教派の管長になったという経緯からも、両者が制度上分けられたことがわかります。
天理教や金光教は神道なのですか
難しい問いです。戦前は制度上、神道の教派として公認されていました。しかし教団自身は、神道の一派として分類されることに必ずしも同意していません。天理教は現在、文化庁の統計でも諸教に分類されています。制度上の位置づけと、教団自身の自己認識が食い違っている例だとお考えください。
十三派という数字に決まった意味はありますか
結果としてそうなった、というのが正確です。1908年の天理教の独立で13になり、1945年まで新たな公認がなかったため、この数字が定着しました。なお当時、仏教の公認宗派も13でしたが、これは偶然の一致とされています。
教派神道は今も活動していますか
活動しています。それぞれが宗教法人として存続し、教派神道連合会という組織も続いています。規模は教団によって大きく異なりますが、明治から百数十年にわたって教えを伝えてきた団体が、現在も各地にあります。
まとめ
教派神道十三派とは、明治期に国から公認された13の神道系教団のことです。黒住教と神道修成派の独立に始まり、天理教の独立で13が出そろいました。
分かれ道になったのは、神官は教導職を兼ねず葬儀に関係しないと定めた1882年の通達でした。祭りをとるか教えをとるか。出雲大社の千家尊福のように、大社の宮司を辞して教えの側へ移った人もいます。
神社神道が宗教ではないという立場を受け入れたのに対し、教派神道は宗教であることを引き受けました。神社が語らなくなった時代に、語り続けたもう半分の神道。そう捉えると、この13という数字の意味が見えてくるように思います。










