復古神道とは?国学者が取り戻そうとした日本人の心と、今を生きる私たちへの問い

復古神道とは?国学者が取り戻そうとした日本人の心と、今を生きる私たちへの問い

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祓え給い、清め給え

お正月には初詣に行き、家を建てるときは地鎮祭をして、七五三で子の成長を祝う。私たちは今も神道の作法とともに暮らしています。しかし、その一つひとつが何を意味しているのか、答えられる方はどれくらいいるでしょうか。

今から二百数十年前、同じ危機感を抱いた人たちがいました。日本人の心が、外から入ってきた考え方に覆われて見えなくなっている。もう一度、この国のもともとの精神に立ち返らなければならない。そうして生まれたのが復古神道(ふっこしんとう)です。

この記事では、復古神道とは何を取り戻そうとした思想だったのか、誰がどのように築いたのか、そして明治から現代にかけてそれがどう使われ、どう上書きされてきたのかを整理します。そのうえで、令和を生きる私たちが何を受け継いでいけるのかを考えたいと思います。

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復古神道とは何でしょうか

復古神道とは、江戸時代中期から後期にかけて国学者たちが唱えた神道の一派です。古道(こどう)、古学神道とも呼ばれます。

その主張は明快です。日本の神道は、仏教や儒教、道教といった外来の思想と長い年月をかけて混ざり合ってきた。神仏習合の中で、神々は仏の仮の姿とされ、神社には僧侶がいて読経が行われていた。それらの後から加わった衣を一枚ずつ脱がせていけば、その下に日本固有の、混じり気のない古い信仰が現れるはずだ。それを取り戻そう、というものです。

方法は文献研究でした。仏教や儒教が伝わる前、あるいは影響が薄かった時代に書かれた書物、すなわち古事記、日本書紀、万葉集、祝詞、風土記を徹底的に読み込む。そこに残された言葉づかいや発想から、古代の日本人がどう世界を見ていたのかを復元しようとしたのです。

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「漢意」を捨てるという主張

復古神道の核心にある言葉が漢意(からごころ)です。中国由来の考え方に染まった物の見方、という意味で使われます。

本居宣長は、この漢意を厳しく批判しました。何かにつけて理屈で割り切ろうとする、道徳的な善悪で裁こうとする、体系立った教義を求めたがる。そうした姿勢はすべて儒教や仏教から来たものであり、日本人本来のものではないというのです。

では日本人本来の心とは何か。宣長が示したのがもののあはれでした。物事に触れたとき、理屈をつける前に心が動く。美しいものを美しいと感じ、悲しいことを悲しいと思う。その素直な情の動きこそが人の本質であり、それを描いた源氏物語こそ日本文学の頂点である、と論じたのです。

神についても同じです。宣長は、神とは尋常でない力を持つもの全般を指すのであり、善なるものも悪しきものも含まれると述べました。全知全能の絶対者を立て、その意志を論理で説明しようとするのは、まさに漢意です。日本の神々は理屈では割り切れない。割り切れないままに畏れ、敬う。それが古道だというわけです。

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国学四大人という系譜

復古神道は、一人の天才が作った思想ではありません。四代にわたる学問の積み重ねによって形になりました。この四人を国学の四大人(しうし)と呼びます。

人物時期果たした役割
荷田春満(かだのあずままろ)1669年〜1736年古典と古語の研究を学問として立ち上げた。国学の創始者とされる
賀茂真淵(かものまぶち)1697年〜1769年万葉集を研究し、ますらをぶりという古代人の心の型を見出した
本居宣長(もとおりのりなが)1730年〜1801年35年をかけて古事記伝を完成。もののあはれと漢意批判を確立した
平田篤胤(ひらたあつたね)1776年〜1843年宣長の学問を信仰として体系化し、死後の世界を論じて庶民へ広げた

特筆すべきは本居宣長の仕事です。当時、古事記は読めない書物でした。漢字の音と訓を入り混ぜて日本語を書き写した文章は、千年の間に読み方が失われていたのです。宣長は三十五年をかけて全四十四巻の注釈書「古事記伝」を書き上げ、この書物を現代によみがえらせました。私たちが今日ヤマタノオロチや天岩戸の物語を読めるのは、この途方もない仕事があったからです。

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平田篤胤が変えたもの

宣長の学問を受け継ぎ、それを大きく展開したのが平田篤胤です。ただし、性格はかなり異なります。

宣長はあくまで文献学者でした。書かれていることを厳密に読むことに徹し、書かれていないことは語りませんでした。対して篤胤は、そこから踏み込んで信仰の体系を組み立てます。

最も大きな仕事が、死後の世界を論じたことです。宣長は、人は死ねば誰もが黄泉の国という汚い場所へ行くと古事記に書いてあるのだから、そのように受け止めるほかないという立場でした。しかし篤胤は、人の魂は黄泉へ行くのではなく、この世と重なった幽冥界(ゆうめいかい)にとどまり、大国主命の統治のもとで子孫を見守るのだと説きました。

これは学問としては宣長からの逸脱ですが、思想としては決定的でした。仏教が担っていた死後の救いという領域に、神道の側から答えを用意したからです。この教えは、身近な人の死に向き合う庶民に受け入れられ、篤胤の門人は農民や神職を中心に全国へ広がっていきました。

学問が思想になり、思想が運動になる。復古神道が幕末の政治を動かす力を持ったのは、篤胤の系統によるところが大きいのです。

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復古神道はキリスト教の影響を受けたという説

ここで、復古神道をめぐる興味深い説をご紹介します。平田篤胤の思想には、キリスト教の教義が取り込まれているのではないかという指摘です。外来の思想を排そうとした学問が、実は別の外来思想を吸収していたことになりますから、事実だとすればこれ以上ない皮肉です。

根拠とされる「本教外篇」

この説の中心にあるのが、篤胤の初期の草稿である『本教外篇(ほんきょうがいへん)』です。生前は公にされず、後世になって研究者が内容を検討したところ、当時中国で刊行されていたキリスト教関係の漢文書物と、きわめてよく似た記述が含まれていることが分かりました。

書物内容
天主実義(てんしゅじつぎ)イエズス会の宣教師マテオ・リッチが中国で著した漢文の教理書。唯一の造物主の存在を論証する
七克(しちこく)宣教師パントーハによる漢文の道徳書。七つの罪と、それに打ち克つ徳を説く

当時の日本ではキリスト教は禁じられていましたが、これらは中国語で書かれた道徳や哲学の書物という体裁をとっていたため、漢籍として国内に入っていたと考えられています。篤胤がそれらを読んでいた可能性は十分にあるわけです。

どこが似ているとされるのか

指摘される類似点は、細かな言い回しにとどまりません。思想の骨格そのものに及びます。

篤胤の説類似が指摘される点
天之御中主神を万物を生み出した主宰神として最高位に置く古事記では冒頭に一度現れて姿を消す神。それを唯一の造物主のような存在に高めた構図が、一神教の創造神に似る
死後、魂は幽冥界へ行き大国主命の審判を受ける生前の善悪が死後に裁かれるという枠組み。記紀の黄泉の国の描写には審判の観念がない
善行には報い、悪行には罰があるという応報古来の神道は現世の清浄を重んじ、死後の賞罰をほとんど語らない

とくに二つ目と三つ目は重要です。前の節で見たとおり、篤胤の幽冥界の教えは宣長からの明確な逸脱でした。その逸脱の方向が、たまたま一神教の死生観と重なっているという点が、この説の説得力を支えています。

慎重に見ておくべきこと

一方で、この説を鵜呑みにするのも早計です。次のような反論があります。

まず篤胤自身は、キリスト教を邪教として明確に批判しています。もっとも、禁教下でしたから、影響を受けていたとしても公に認められるはずがありません。この点は水掛け論になりやすいところです。

次に、天之御中主神を最高神として重んじる考え方は、篤胤以前にも伊勢神道や吉田神道の系統に見られます。造化の始まりの神を中心に据えること自体は、キリスト教を持ち出さなくても説明がつくという立場です。死後の応報についても、中国の上帝の観念や仏教の因果応報から説明できるという見方があります。

そして『本教外篇』は生前公表されなかった草稿です。篤胤の思想体系の中でどれほどの位置を占めるのかについては、研究者の間でも評価が分かれています。

ですから「復古神道はキリスト教の異端である」という言い方は、刺激的ではあるものの、そこまで断定できる話ではありません。平田篤胤の一部の議論に、漢訳キリスト教文献からの影響がうかがえる。ここまでが、慎重に見たときに言えることだと筆者は考えています。

この説が教えてくれること

それでも、この説には考えさせられるものがあります。

篤胤が仮にキリスト教の枠組みを借りたのだとしても、その目的は日本の神々の世界を守ることでした。仏教が死後の救いを一手に引き受けていた時代に、神道の側から答えを用意しなければ、人々の心は仏教に流れ続ける。そこで、目的にかなう道具であれば出どころを問わずに使った。そう読むこともできるのです。

これは、まさに日本文化が繰り返してきたやり方そのものです。漢字を借りて仮名を生み、仏教を受け入れて神仏習合を育て、道教の暦を取り込んで陰陽道を作った。外来のものを排除するのではなく、自分の目的のために作り変える。純粋さを掲げた復古神道でさえ、その例外ではなかったのかもしれません。

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古神道と復古神道の違い

似た言葉が並ぶため、ここで整理しておきます。

用語指すもの
古神道仏教伝来以前にあったとされる、日本固有の原初的な信仰そのもの。自然崇拝や祖霊信仰を中心とする
復古神道江戸時代の国学者が、その古神道を文献から復元しようとした思想と運動
神仏習合神と仏を一体のものとして信仰する、中世から近世の主流のあり方
国家神道明治以降、国家が神社を管理し祭祀を統括した体制。復古神道の影響を受けつつ別のもの

つまり古神道が対象であり、復古神道はそれを取り戻そうとする営みです。そして注意しておきたいのは、純粋な古神道の姿は誰も見たことがないということです。文字のない時代の信仰ですから、復元には必ず解釈が入ります。国学者たちが描いた古代の姿もまた、江戸時代の人が想像した古代なのです。

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幕末から明治へ 思想が政治になった

ここから、復古神道の運命が大きく動きます。

日本古来の姿に立ち返るという主張は、天皇を中心とした古代の政治体制を理想とする考えと結びつきました。幕府ではなく朝廷こそが本来の統治者である。この論理は尊王思想となり、幕末の志士たちを動かす原動力のひとつになります。

明治維新が成ると、新政府は古代の制度を復活させました。祭祀を司る神祇官が再興され、しかも太政官の上に置かれます。祭政一致、つまり祭りと政治は一体であるという古代の理念が、制度の形をとって実現したのです。

同時に神仏分離令が出され、千年以上続いた神仏習合が制度上解体されます。これが各地で暴走したのが廃仏毀釈でした。寺が壊され、仏像や経典が焼かれ、失われた文化財は数知れません。混じり気を取り除くという理念が、現実には破壊として現れてしまったのです。

ここは冷静に見ておくべきところだと思います。国学者たちが本来求めたのは、書物を通して古代人の心を知ることでした。他の宗教を物理的に排除せよという主張ではありません。しかし思想が政治の力を得たとき、その繊細な部分は削ぎ落とされ、単純な排除の論理だけが残ってしまいました。

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明治から戦後へ 上書きされていった神道

その後の百五十年で、神道の位置づけは何度も塗り替えられました。

時代神道に起きたこと
明治前期神祇官の再興と神仏分離。しかし神祇官はわずか数年で格下げ・廃止され、神社行政は一般官庁へ移る
明治後期神社は宗教ではなく国家の祭祀であるという位置づけが定着。神社合祀により多くの小さな社が統廃合された
大正デモクラシーの気運の中で、国家祭祀としての神社と個人の信仰との距離が問われる
昭和前期富国強兵から戦時体制へ。神社参拝が国民統合と戦意高揚の装置として用いられる
戦後GHQの神道指令により国家と神社が分離。神社は民間の宗教法人となり、神社本庁が設立される
現代信仰としてより、年中行事や観光の対象として親しまれる比重が大きくなる

特に大きな断層が二つあります。

ひとつは戦時中です。祖先を敬い自然に感謝するという素朴な信仰が、国家への忠誠や戦争の遂行と結びつけて語られました。これは復古神道が本来目指したものと同じではありません。しかし現実にそう使われた以上、その事実からも目をそらすべきではないと筆者は考えています。

もうひとつは戦後です。国家神道の解体は必要な措置でしたが、その過程で神道全体が危険なものとして扱われる空気が生まれました。学校で日本の神話を教えることもなくなり、多くの日本人は自国の建国の物語を知らないまま大人になります。政治的な装置を取り除く作業が、文化そのものを手放すところまで及んでしまった面があるのです。

今、私たちはどこにいるのでしょうか

令和の日本を見渡すと、状況は江戸時代の国学者が憂えたものとは、また違う形で切実になっています。

初詣には行くけれど、なぜ手を二回打つのかは知らない。新嘗祭の日が勤労感謝の日になっていることも、その日が何の日だったかも知らない。神棚のある家は減り、氏神様がどこかも分からない。米を食べていても、それが神様に供えられてきた最初の実りだという感覚は薄れています。

宣長や篤胤が向き合ったのは、儒教や仏教という強い体系でした。今の私たちが向き合っているのは、特定の思想ではなく、何も受け取らないまま次の世代へ渡してしまうという静かな断絶です。敵がいないぶん、危機として自覚されにくい。そこが難しいところだと思います。

筆者の考察 何を受け継ぐのか

ここからは、筆者の考えを述べます。

復古神道から学ぶべきものは何か。それは自分たちの根がどこにあるのかを、自分の手で確かめようとした姿勢だと思います。宣長は三十五年かけて古事記を読み解きました。誰かに教わった答えではなく、原典に当たって考え抜いた。その営みそのものが、受け継ぐべき態度なのではないでしょうか。

一方で、復古神道の方法をそのまま真似ることには慎重でありたいとも考えています。混じり気を取り除けば純粋なものが現れるという発想は、実は日本の信仰の歴史とうまく噛み合わない面があるからです。

八百万の神という世界観は、そもそも新しい神を迎え入れることを拒みません。仏が伝わればともに祀り、道教の暦を取り入れ、儒教の徳目を作法に織り込んできました。受け入れて自分の形に作り変える力こそが、日本文化のいちばんの特徴でもあるのです。純粋さを求めるあまり、この包容力まで手放してしまっては、かえって日本らしさから遠ざかります。

先に触れたキリスト教の影響という説も、この文脈で読むと意味が変わってきます。混じり気を排そうとした思想でさえ、必要とあれば外の枠組みを取り込んでいた。それは矛盾ではなく、この国の思想の作法だったのだと思います。

ですから、目指すべきは他を退けることではなく、自分の足元を知ったうえで人と交わることだと思います。自分が何者かを知らないまま外のものを取り入れれば、ただ流されます。しかし根を持っている人は、何を受け入れ何を受け入れないかを自分で選べます。国学者たちが本当に欲しかったのも、その主体性ではなかったでしょうか。

暮らしの中で受け継ぐという方法

では具体的に何ができるのか。壮大な話にする必要はありません。神道はもともと教義ではなく、暮らしの作法として受け継がれてきたものです。

受け継ぐもの暮らしの中でできること
実りへの感謝いただきますを言う。新嘗祭の日に新米を食べ、その意味を家族に話す
土地の神への挨拶氏神様を調べ、引っ越しや年の初めに参拝する
清めるという習慣大掃除、手水、盛り塩。年に二度の大祓の日を意識する
言葉を大切にする言霊の感覚を持ち、口にする言葉を選ぶ
祖先とのつながりお盆と正月に手を合わせる。祖父母の話を子に伝える
神話を知る古事記を自分で読む。子に日本の建国の物語を話す

どれも誰かを排除しません。他の信仰を持つ方と隣り合って暮らしながら、同時に続けられることばかりです。そして、こうした小さな習慣の積み重ねこそが、千年以上にわたって神道を伝えてきた実際の方法でした。

神社の社殿は二十年ごとに建て替えられます。伊勢の式年遷宮です。形あるものは朽ちるけれど、建て替える技術と心を次の世代へ渡し続ければ、千三百年を超えて同じ姿が保たれる。日本の伝統とは、変えないことではなく渡し続けることで守られてきました。

復古神道が私たちに投げかけているのは、あなたは何を次に渡すのか、という問いなのだと思います。そしてその問いに答えるには、まず自分が受け取らなければなりません。この記事が、そのささやかなきっかけになれば幸いです。

まとめ

復古神道は、江戸時代の国学者が仏教や儒教の影響を取り除き、日本固有の古い信仰に立ち返ろうとした思想です。荷田春満に始まり、賀茂真淵、本居宣長を経て平田篤胤に至る四代の学問によって形づくられました。宣長は漢意を批判してもののあはれを説き、篤胤は幽冥界の教えによってそれを庶民の信仰へと広げました。

この思想は幕末の尊王運動と結びつき、明治の神仏分離と国家神道へつながります。しかし廃仏毀釈という破壊を招き、戦時には国民統合の装置として用いられ、戦後は国家との分離とともに文化ごと遠ざけられました。良くも悪くも、幾度となく上書きされてきたのです。

今の日本に必要なのは、純粋さを求めて他を退けることではなく、自分たちの根を知ったうえで人と交わることだと筆者は考えます。実りへの感謝、土地の神への挨拶、清めの習慣、言葉を大切にする心。暮らしの中の小さな作法を受け取り、次へ渡していくこと。それが、国学者たちが本当に願っていたことなのではないでしょうか。

語源・歴史・実践法をさらに深く知りたい方へ

祓え給い、清め給え

「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」の語源・歴史・実践法をさらに深く知りたい方へ。

一語一語を古語の次元まで掘り下げた完全解説をnoteで公開しています。

「祓え」「清め」「神ながら」「幸え」それぞれの語根が持つ本当の意味、なぜ効果があるのか、深く唱えるための具体的な実践法まで書きました。

この記事を書いた人

日本神話と歴史
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