縄文人はどこまで海を渡ったのか|3万8000年前の往復航海と、海外交流説はどこまで本当か

この記事はプロモーションが含まれます。
伊豆諸島に神津島という島があります。
この島は、地球の歴史のなかで一度も本州と陸続きになったことがありません。氷期で海面が大きく下がった時代でも、陸橋はできませんでした。もっとも近い伊豆半島の石廊崎からでも、およそ51キロメートルの海が横たわっています。

ところが本州の遺跡からは、この神津島でしか採れない黒曜石が出土します。しかも、およそ3万8000年前という、後期旧石器時代のはじまりにあたる時期のものです。
結論は一つしかありません。誰かが海を渡って石を取りに行き、そして帰ってきたのです。世界最古級の往復航海の痕跡とされています。
日本列島に暮らした人々は、思われている以上に海を使いこなしていました。この事実を出発点に、では一体どこまで行けたのか、そして海の向こうとの交流を唱える諸説はどこまで確かなのかを、確かめられていることと、まだ仮説にとどまることを分けながら見ていきます。
広告
まず、確実にわかっていること
想像の話に入る前に、物として残っている証拠を確認しておきます。ここは推測ではなく、出土品が語る部分です。
神津島の黒曜石が示すもの

黒曜石は火山活動でできるガラス質の石です。割ると鋭い刃になるため、旧石器時代から縄文時代を通じて石器の素材として重宝されました。
重要なのは、黒曜石が産地ごとに化学的な組成の違いを持つ点です。分析すれば、どこで採れた石かを特定できます。つまり黒曜石は、古代の人の移動を追跡できる数少ない物証なのです。
その分析によって、神津島産の石が本州側へ運ばれていたことが明らかになりました。片道51キロメートルの外洋を、往復した。3万8000年前にです。
7500年前の丸木舟が実際に出ています
舟そのものも見つかっています。千葉県市川市の雷下遺跡から出土した丸木舟は、およそ7500年前、縄文時代早期のものです。
材はムクノキ、全長はおよそ7.2メートル、幅がおよそ50センチメートル、船べりの厚さはおよそ8センチメートルでした。これが現在知られているなかで国内最古とされています。

筆者が注目するのは厚さです。8センチメートルという数字は、丸太を削り残した結果ではなく、意図して設計された厚みだと考えられます。薄すぎれば割れ、厚すぎれば重くて進まない。何度も作り、何度も海に出した経験がなければ、この寸法にはたどり着けません。技術として蓄積されていたことが、この一点からうかがえます。
糸魚川のヒスイは列島の端から端まで届きました
もうひとつ、移動を追える物があります。新潟県糸魚川のヒスイです。
糸魚川周辺では、およそ7000年前の縄文時代前期からヒスイが利用されていました。これは世界的に見ても最古級のヒスイ文化とされています。縄文中期の遺跡からは、大珠と呼ばれる大型の装飾品や、その作りかけの品が見つかっています。
そして糸魚川のヒスイは、北は北海道や青森から、西は九州や沖縄まで運ばれました。列島の端から端です。ヒスイはきわめて硬い石で、加工には相当の手間がかかります。それを遠方の人々が求め、実際に手に入れていたということになります。
物証を一覧にすると
| もの | 産地 | 運ばれた範囲 | 時期の目安 | わかること |
|---|---|---|---|---|
| 黒曜石 | 神津島 | 伊豆半島から関東の各地 | 約3万8000年前から | 外洋の往復航海が行われていました |
| 黒曜石 | 隠岐 | 中国地方や近畿地方など | 旧石器から縄文 | 日本海側にも流通網がありました |
| 黒曜石 | 北海道の白滝など | 北海道全域および北方の島々 | 旧石器から縄文 | 北方へのつながりがありました |
| ヒスイ | 糸魚川 | 北海道から沖縄まで | 約7000年前から | 列島規模の交換網が成立していました |
| 丸木舟 | 市川市の雷下遺跡ほか | 実物が全国で出土 | 約7500年前から | 舟の製作技術が確立していました |
この表が示しているのは、縄文時代の日本が孤立した島々ではなかったということです。海は隔てるものではなく、道でした。

広告
では、どこまで行けたのでしょうか
2019年、実際に丸木舟で渡ってみた人たちがいます
国立科学博物館を中心とするチームが、3万年前の航海を実際に再現する試みを行いました。2019年7月、台湾から沖縄の与那国島までのおよそ225キロメートルを、丸木舟で渡ったのです。
使ったのは、石斧で切り倒したスギから作った丸木舟です。衛星測位も地図もコンパスも持たず、太陽と星を頼りに進路を定めました。乗ったのは男女5人。黒潮を越えて、およそ45時間で到達しています。
この実験が証明したのは、当時の技術で渡れたということであって、実際にそのように渡ったという証明ではありません。研究チーム自身もその点は明確にしています。それでも意義は大きいと筆者は考えます。できるはずがない、という前提を外してくれたからです。
海流という条件を忘れてはいけません
ここで冷静に押さえておきたいことがあります。海を渡れるかどうかは、舟の性能だけでは決まりません。海流と風が決定的に効きます。
日本列島の周囲には黒潮と対馬海流が流れています。これらは南から北へ、そして日本海へと向かう流れです。南方から列島へ来るのは流れに乗る形になりますが、逆に列島から南や西へ向かうのは流れに逆らうことになります。行きやすい方向と行きにくい方向があるわけです。
遠方との交流を論じるとき、この非対称を無視した議論はあまり説得力を持ちません。逆にいえば、海流の向きを踏まえた説であれば、検討に値するということでもあります。
広告
ここから先は「説」の領域です
縄文人が優れた航海者だったという事実は、多くの想像をかき立ててきました。もっと遠くまで行っていたのではないか。インドと、あるいは南米とつながっていたのではないか。
ここからは、そうした説を紹介します。ただし、先ほどまでの物証の話とは性質が異なります。どこまでが確かめられていて、どこからが推測なのかを、はっきり区別しながら見ていきます。
説その1 南インドとのつながりを唱えたもの
国語学者の大野晋が唱えた説です。日本語は南インドのタミル語と系統的につながっており、稲作や金属器の技術、さらには信仰や歌の形式までが、その流れで伝わったとしました。1980年代から著作を通じて広く知られるようになります。
根拠として挙げられたのは、基礎的な語彙の類似、文法の構造がよく似ていること、そして五七調に通じる歌の形式などです。
一方で、比較言語学の側からは強い批判が寄せられました。言語の系統関係を証明するには、音の対応が規則的に成り立つことを示さなければなりません。この点の厳密さが足りない、比較する語の選び方が恣意的である、といった指摘です。学界では、この説は受け入れられていないと考えてよい状況です。
説その2 南米の土器と縄文土器が似ているとするもの
1960年代に発表され、当時大きな話題になった説です。南米エクアドルのバルディビア遺跡から出土した古い土器が、九州の縄文土器とよく似ていることから、縄文人が太平洋を渡ったのではないかと提唱されました。
しかしその後、エクアドルでバルディビアより古い土器が見つかったこと、また文様の類似は独自に発生したものとして説明がつくことから、現在この説を支持する研究者はほとんどいません。
筆者は、この説の顛末に教訓があると考えています。似ているという印象は、それだけでは何の証明にもならないのです。人間が粘土をこねて器を作れば、世界のどこでも似たような形と文様に行き着くことがあります。似ていることを驚く前に、他の説明で足りないかを確かめる必要があります。
説その3 祭礼や儀礼の共通性を根拠とするもの
近年よく語られるのは、日本と南方アジアの祭礼に共通点があるという指摘です。神域を縄で囲う、植物を神の依り代として用いる、水で身を清めるといった要素が、インドや東南アジアにも見られる、というものです。
これらの共通点自体は、たしかに存在します。ただ、そこから直ちに古代の交流を導くのは早計だと筆者は考えます。理由は単純で、これらの要素はどれも人間が自然のなかで信仰を組み立てるときに、独立して生まれやすいものだからです。
目に見えない領域と日常の領域を区切りたいと思えば、縄や布を張るのがもっとも手軽です。神が宿る場所を示したいと思えば、常緑の木を立てるのが自然です。水で清めるのは、汚れが水で落ちるという日常の経験の延長にあります。似ているのは、人間の発想が似ているからだという説明で、多くは足りてしまいます。
三つの説を並べてみると
| 説 | 根拠として挙げられるもの | 主な批判 | 現在の位置づけ |
|---|---|---|---|
| 南インド語との同系説 | 語彙と文法の類似、歌の形式 | 音韻対応が規則的でなく、語の選定も恣意的とされる | 学界では支持されていません |
| 南米との土器交流説 | 文様と器形の類似 | より古い現地の土器が発見され、独自発生で説明できる | ほぼ否定されています |
| 祭礼の共通性による交流説 | 結界、依り代、禊など儀礼の類似 | 環境が似れば独立に生まれうる要素が多い | 共通点は事実ですが、交流の証拠にはなりません |
広告
筆者の考察 事実と仮説を分けて、両方を味わう
否定されるべきは説ではなく、混同です
ここまで読んで、遠方交流の説をすべて切り捨てているように感じられたかもしれません。そうではありません。
筆者が問題だと思うのは、説を唱えることではなく、物証と推測を同じ調子で語ってしまうことです。神津島の黒曜石は事実です。南インドとの言語的なつながりは仮説です。この二つを並べて、だから縄文人はインドまで行っていた、という語り方をすると、せっかくの事実まで疑わしく見えてしまいます。
分けて語れば、どちらも損なわれません。事実は事実として力を持ち、仮説は仮説として面白い。むしろ、事実の側がこれだけ豊かなのですから、堂々と分けたほうが得だと思うのです。
それでも、可能性が閉じたわけではありません
同時に、これらの説が完全に否定されたと言い切るのも行き過ぎです。
考古学の歴史を振り返ると、ありえないとされてきたことが物証の発見でひっくり返った例は、いくつもあります。神津島の黒曜石にしても、旧石器時代の人が外洋を往復していたなど考えにくいと思われていた時代がありました。分析技術が進んだ結果、認めざるをえなくなったのです。
ですから筆者は、遠方交流説に対して、現時点では支持されていない、という言い方を選びます。間違っている、ではありません。証拠が足りない、です。この二つは大きく違います。
海を神として祀ってきたことの意味
神道の側から、ひとつ補助線を引いておきます。
日本の神々には、海に関わる神がきわめて多く含まれています。大綿津見神、住吉三神、宗像三女神。いずれも古い由緒を持ち、航海の安全を守る神として厚く信仰されてきました。船そのものを神とした鳥之石楠船神という神様さえおられます。
これほど海の神が重んじられてきたのは、この列島に暮らした人々にとって、海が生活の場だったからにほかなりません。恐ろしくもあり、恵みももたらす。逆らえないが、使いこなすこともできる。その両面が、神への向き合い方にそのまま表れています。
神話の記述を航海の記録として読み替えるような作業は、慎重にすべきだと思います。ただ、これだけ海の神が多いという事実そのものが、この列島の人々と海の距離を語っているとはいえるでしょう。物証としての黒曜石と、信仰としての海の神。両方から見ると、縄文の航海という主題は、ずいぶん立体的になってきます。
広告
縄文の航海についてよくある質問
縄文人は外国と交易していたのですか
近隣との往来を示す材料はあります。朝鮮半島や大陸の一部、そして北方のサハリンや千島の方面との間で、物や技術が行き来していたことは考古学的に確認されています。一方で、インドや南米といった遠隔地との直接交流を裏づける物証は、現在のところ見つかっていません。
糸魚川のヒスイは朝鮮半島でも出ていると聞きました
出土しています。ただし時期に注意が必要です。朝鮮半島で多く見つかるヒスイ製の勾玉は、主に5世紀から6世紀にかけてのもので、縄文時代ではなく古墳時代にあたります。縄文期のヒスイ流通は、基本的に列島の内部で確認されているものです。

丸木舟で外洋に出るのは危険ではなかったのですか
危険だったはずです。だからこそ、天候を読み、海流を知り、星で方角を測る知識が積み上げられました。2019年の実験航海でも、出発の判断に慎重を期しています。往復できたという事実は、失敗が一度もなかったことを意味しません。戻れなかった舟も相当数あったと考えるほうが自然でしょう。
縄文人と稲作は関係がありますか
関係があります。かつては稲作を弥生時代の始まりとする理解が一般的でしたが、現在では縄文時代の後半にすでに稲の栽培が行われていたことが確認されています。海を通じた交流のなかで、作物や技術も移動していたわけです。
結局、どう受け止めればよいのでしょうか
わかっていることだけでも十分に驚くべき内容だ、というのが筆者の考えです。3万8000年前に外洋を往復し、7000年前には列島の端から端まで物が動いていた。この事実の前では、遠方交流の説を持ち出さなくても、縄文の人々の航海は十分に壮大です。そのうえで、まだわからない部分を仮説として楽しむ。そういう順序がよいのではないでしょうか。
広告
まとめ
神津島の黒曜石は、およそ3万8000年前に外洋の往復航海が行われていたことを示しています。7500年前の丸木舟が実物として出土し、7000年前から糸魚川のヒスイが列島の端から端まで運ばれました。海は隔てるものではなく、道でした。
一方、南インドや南米との交流を唱える説については、現在のところ物証が足りていません。共通点があること自体は事実ですが、それは交流の証拠にはならないというのが、慎重に見たときの結論です。
事実は事実として、仮説は仮説として。分けて扱えば、どちらも面白さを失いません。海の神を数多く祀ってきたこの国の信仰も、その両方の上に立っているのだと思います。










