ドラヴィダ人は出雲や東北へ渡ったのか。日本語タミル語起源説と日高見国の謎をわかりやすく解説

ドラヴィダ人は出雲や東北へ渡ったのか。日本語タミル語起源説と日高見国の謎をわかりやすく解説

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祓え給い、清め給え

日本語の起源をめぐる議論の中に、遠くインド南部の言葉と結びつける説があることをご存じでしょうか。

ドラヴィダ人、とりわけタミル語を話す人々の文化が、稲作や機織りの技術とともに日本列島へ伝わったのではないか、という考え方です。しかもその説を唱えた国語学者が特に注目したのが、神話の国である出雲でした。

そしてもう一つ、出雲と不思議な糸でつながる土地があります。東北です。古代の東北には日高見国(ひたかみのくに)と呼ばれる地があったと記録されており、言葉の面でも出雲と東北には見過ごせない共通点が残っています。この記事では、ドラヴィダ人と日本語をめぐる学説の中身と学界での評価を丁寧に整理したうえで、出雲と東北をつなぐ日高見国の話、さらに古代の空や地軸をめぐるロマンあふれる説まで、順を追ってご紹介します。

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ドラヴィダ人とはどのような人々でしょうか

ドラヴィダ人とは、インド南部やスリランカ北部を中心に暮らす、ドラヴィダ語族の言葉を話す人々の総称です。代表的な言語がタミル語で、ほかにテルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語などがあります。話者は合わせて二億人を超える、世界的にも大きな語族です。

項目内容
主な居住地インド南部、スリランカ北部、周辺の島嶼部
代表的な言語タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語
タミル語の特徴二千年以上前の文学作品が残る古い言語で、語順が日本語と同じ主語述語の並び方をとる
生業の伝統水稲耕作、綿や絹の織物、真珠や宝玉の加工、海上交易
インダス文明との関係インダス文明の担い手がドラヴィダ系だったとする説があるが、文字が未解読のため確定していない

ここで押さえておきたいのは、タミル語が日本語と同じように、主語のあとに目的語が来て最後に動詞が置かれる語順を持ち、助詞にあたる要素を語のうしろに付けていく仕組みを備えているという点です。文法の骨組みが似ていることが、後に述べる学説の出発点になりました。

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大野晋の日本語タミル語起源説とはどのような説でしょうか

ドラヴィダ人と日本を結びつけた学説として最もよく知られているのが、国語学者の大野晋(おおのすすむ)が唱えた説です。大野は岩波古語辞典の編者としても知られる日本語研究の大家で、晩年に南インドのタミル語と日本語の関係を精力的に論じました。

大野の主張を要約すると、次のようになります。縄文時代の終わりから弥生時代の初めにかけて、南インドから海を渡ってきた人々の言葉が、それまで列島にあった言語と混じり合い、そこから弥生時代以降の日本語が形づくられたのではないか、という考え方です。単に単語が少し借用されたという話ではなく、言語そのものの成り立ちに深く関わったとする、かなり踏み込んだ主張でした。

大野が根拠として挙げたのは、次のような対応です。

対応が指摘された分野内容
語彙稲作、機織り、金属、墓制、祭りなどに関わる基礎的な語に、音と意味の似た組み合わせが多数見られるとした
文法語順の一致、助詞のような後置要素の存在、係り結びに似た構造の指摘
和歌の形式タミルの古典詩集サンガム文学と、万葉集の歌の主題や表現に共通点があるとした
習俗稲の収穫祭、墓に甕を用いる風習、穀霊への信仰など、暮らしの根幹に関わる文化の一致

ただし、この説が学界の定説になっているわけではありません。比較言語学では、二つの言語の親族関係を証明するために、音の変化に例外のない規則性があることを示す必要があります。大野の挙げた対応については、音韻の対応規則が厳密でない、偶然の一致を集めた可能性がある、対応語の年代の扱いに問題があるといった批判が、専門家から数多く寄せられました。現在の日本語学では、日本語の系統は依然として未確定というのが標準的な見方です。

そのうえで申し上げると、大野説が投げかけた問いそのものは今も価値を失っていません。日本語という言葉がどこから来たのか、稲作という技術は誰が運んできたのか。これらはまだ誰も最終的な答えを出せていない問題です。ですから本記事でも、確かめられている事実と、面白い仮説とを、はっきり分けてご紹介していきます。

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なぜ出雲が注目されるのでしょうか

大野晋がこの説を組み立てるなかで、特に重視した土地が出雲でした。理由はいくつかあります。

出雲の言葉に注目したこと

大野は、出雲地方の方言に古い日本語の姿が残っていると考え、そこにタミル語との対応を探しました。後で詳しく触れますが、出雲の言葉は日本列島の方言の中でもきわめて個性的で、地理的に遠く離れた東北地方と共通する特徴を持っています。この不思議な事実が、出雲を特別な土地として浮かび上がらせたのです。

鉄と玉という技術の集積地であったこと

出雲は、たたら製鉄で知られる鉄の一大産地でした。奥出雲の砂鉄と豊かな森が支えた製鉄技術は、日本刀の材料である玉鋼を生み出し、近代まで受け継がれています。さらに出雲は勾玉の生産地でもあり、玉造という地名が今も残ります。鉄と玉、いずれも高度な専門技術であり、その技術がどこから来たのかという問いは、渡来の人々の足跡をたどる手がかりになります。南インドが古代から宝玉の加工と海上交易で栄えた地域であったことを重ねて、両者を結びつける議論が生まれました。

海に開かれた土地であったこと

出雲は日本海に面し、対馬海流が運ぶ人と物の通り道に位置していました。出雲国風土記に記された国引き神話では、新羅や北陸の余った土地を綱で引き寄せて出雲を大きくしたと語られます。この神話は、海の向こうから人や文化が渡ってきたという記憶の反映だと読むこともできます。出雲が古代の国際港湾都市のような性格を持っていたことは、多くの研究者が認めるところです。

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出雲と東北をつなぐ不思議な共通点

ここからが、この記事の本題のひとつです。地図の上では千キロ以上離れている出雲と東北に、言葉の面での明確な共通点があることをご存じでしょうか。

出雲地方の方言は、東北方言と同じく、いわゆるズーズー弁と呼ばれる音の特徴を持っています。イとウの母音の区別があいまいになり、シとス、チとツの発音が近づくという現象です。このため出雲弁は、日本海側の方言分布の中で、東北方言と同じ系統に括られることがあります。言語学ではこの分布を、裏日本式の方言、あるいは日本海沿岸に連なる方言圏として説明します。

内容評価
方言周圏論による説明都で新しい言い方が生まれるたびに古い言い方が周辺へ押しやられ、遠く離れた出雲と東北に同じ古形が残った柳田国男以来の考え方で、多くの言語学者が支持する
日本海交流説日本海の海上交通によって、出雲と北陸と東北が一つの文化圏を形づくっていた考古学の出土品の分布とも整合し、有力視されている
集団移動説出雲の人々が東北へ移り住んだ、あるいはその逆の移動があった史料的な裏づけは乏しく、あくまで仮説の域を出ない

神話の面でも、出雲と東北はつながっています。国譲りの場面で最後まで抵抗した建御名方神(タケミナカタ)は信濃へ退きましたし、大和の勢力に従わなかった人々が東国や北方へ移っていったという構図は、記紀の物語の中に繰り返し現れます。中央の秩序に組み込まれなかった人々の記憶が、出雲と東北という二つの土地に色濃く残っているという見立ては、決して突飛なものではありません。

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日高見国とはどのような国だったのでしょうか

日高見国は、古代の東方にあったと伝えられる国の名前です。日本書紀の景行天皇の条には、武内宿禰が東国を視察して戻り、東の夷(ひな)の中に日高見国があり、その人々は男女ともに髪を結い、身体に入れ墨をし、勇敢であると報告した記述が見えます。常陸国風土記にも日高見国の名が現れ、大祓詞では大倭日高見国という表現で日本そのものを指す言い方も伝わっています。

日高見という名は、日の高く見える国、つまり日の出を最もよく望む東方の国という意味に解されることが多い言葉です。その所在地については諸説あり、次のように整理できます。

根拠
北上川流域とする説北上(きたかみ)という地名が日高見(ひたかみ)に由来するとされ、東北地方の中心的な河川流域を指すという考え方
常陸を中心とする説常陸国風土記に日高見国の名が記されており、関東北部から東北南部にかけての地域を指すという考え方
東方の地の総称とする説特定の国名ではなく、日の昇る東の地を広く指す呼び名だったという考え方

いずれにせよ、大和の王権から見て東方に、独自の文化と気風を持つ人々の世界が広がっていたことは確かです。後に蝦夷(えみし)と呼ばれた人々の社会が、この日高見国の系譜に連なると考える研究者もいます。彼らは未開の民ではなく、豊かな漁労と狩猟、そして独自の交易網を持つ人々でした。

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ドラヴィダ人が東北へ渡ったという説について

ここからは、学界の定説ではない、しかし語られ続けてきた興味深い説をご紹介します。南インドから海を渡った人々が出雲にとどまらず、日本海の流れに乗ってさらに北上し、東北の地で日高見国を築いたのではないか、という考え方です。

この説が語られる際に持ち出される材料は、おおむね次のようなものです。まず、出雲と東北の言葉が似ていること。次に、東北にはアラハバキという記紀に登場しない謎の神が広く祀られており、その正体が渡来の神ではないかと語られてきたこと。さらに、東北の縄文遺跡から出土する遮光器土偶の異様な姿や、北上川流域の古い金属加工の伝承などです。

公平を期すために申し上げると、これらはいずれも決定的な証拠ではありません。遮光器土偶の目の表現は、雪の照り返しを防ぐ遮光器を象ったとする説や、目を強調した呪術的な表現とする説が有力で、宇宙服とする見方は学術的な裏づけを持ちません。アラハバキについても、地主神が後から別の神と習合したとする見方が主流です。人骨の形質やDNAの研究でも、南インド系の集団が古代日本へ大規模に渡来したことを示す証拠は、現在のところ得られていません。

それでも筆者は、この説を頭ごなしに否定してしまうのは惜しいと感じています。なぜなら、日本海を舞台にした人と物の行き来は、私たちが想像している以上に活発だったことが、近年の考古学で次々に明らかになっているからです。糸魚川のヒスイが北海道から沖縄まで運ばれていたこと、朝鮮半島や大陸との交易が縄文時代から続いていたこと。当時の人々は、私たちが思うよりずっと遠くまで海を渡っていました。その延長線上に、もっと遠い土地からの来訪者を想像してみることは、決して荒唐無稽な遊びではないのだと思います。

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古代の空は違って見えていたのでしょうか

この種の説とあわせてよく語られるのが、古代の地球環境が今とは違っていたのではないかという話です。地軸のずれによって太陽の昇る位置や高さが変わり、日の出が今よりずっと近く大きく見えたのではないか。日高見という名は、その光景を記憶した名前ではないか。そんなロマンあふれる語りが、古史古伝の愛好者のあいだで受け継がれてきました。

科学的に確かめられていることと、そうでないことを整理してみましょう。

現象科学的な位置づけ
歳差運動地軸の向きが約二万六千年の周期でゆっくり回る現象で、実際に起きています。北極星となる星が時代によって変わるのはこのためです
地軸の傾きの変化傾きは約四万一千年の周期でわずかに変動します。気候の長期変動を説明するミランコビッチ・サイクルの一要素です
地磁気の逆転方位磁針のさす向きが入れ替わる現象で、過去に何度も起きています。千葉県の地層に残る記録からチバニアンという時代名が生まれました
縄文海進約六千年前、現在より海面が数メートル高く、関東平野の奥深くまで海が入り込んでいました。これは地質学的に確認された事実です
短期間で地軸が大きく傾く出来事そのような事象が数千年前に起きた証拠は見つかっていません。地層や氷床の記録とも矛盾します
太陽が現在よりはるかに大きく近く見えた地球と太陽の距離が人類史の時間で大きく変わった証拠はありません

つまり、地軸や地磁気がゆっくりと変化してきたことは事実である一方で、太陽が近く見えるほどの劇的な変動が古代に起きたとする説には、裏づけがないということになります。

ただし、ここで一つ考えてみたいことがあります。縄文海進の時代、東北の海岸線は今とはまるで違う姿をしていました。内陸深くまで入り込んだ入り江の水面に朝日が反射すれば、日の出はさぞ壮麗に見えたことでしょう。空気が澄み、人工の光が一切ない世界で見る日の出は、現代人の想像を超える迫力だったはずです。日高見という美しい名は、超常的な天変地異ではなく、そうした純度の高い自然の光景から生まれたのではないでしょうか。筆者としては、そちらの方がむしろ壮大な想像だと感じます。

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古史古伝が語る世界とのつながり

ドラヴィダ人渡来説や日高見国の壮大な物語は、しばしば古史古伝と呼ばれる文献群と結びつけて語られます。ホツマツタヱ、宮下文書、カタカムナといった文献です。これらはいずれも、記紀とは異なる古代史を伝えるとされる書物ですが、成立年代や史料的な信頼性については学界で厳しい評価を受けており、後世の作とみる見方が一般的です。

とはいえ、これらの文献が人々を惹きつけてきた理由を考えることには意味があります。記紀は大和の王権の側から編まれた歴史です。そこに描かれなかった土地、書き残されなかった人々の物語を求める気持ちが、古史古伝への関心を支えてきました。出雲や東北という、中央から見て周縁に置かれた土地に、別の歴史を探そうとする情熱。それ自体が、日本という国の成り立ちが単一ではなかったことを、私たちが感じ取っている証拠なのだと思います。

筆者の考察として

ドラヴィダ人と出雲、そして東北の日高見国。これらを一本の線で結ぶ説には、確かな証拠がありません。しかし、この説が投げかけている問いは、きわめてまっとうなものだと筆者は考えています。

その問いとは、日本という国は最初から一つだったのか、という問いです。出雲には出雲の神話があり、東北には記紀に載らない神々が祀られています。言葉の分布を見れば、日本海側に大和とは別の文化の流れがあったことがうかがえます。私たちが学校で習う日本の歴史は、大和を中心に語られた一本の物語ですが、実際の列島にはいくつもの物語が同時に流れていたはずです。ドラヴィダ人渡来説の魅力は、その複数性を思い出させてくれるところにあります。

もう一点、筆者が大切だと思うのは、この種の説との付き合い方です。証拠のない説を事実として語ってしまえば、それは歴史ではなく作り話になります。一方で、確かめられていないからという理由だけで想像そのものを封じてしまえば、探究の芽も摘まれてしまいます。ここまでが確かめられていること、ここからは説であること。この線を丁寧に引きながら楽しむのであれば、大胆な仮説は歴史を面白くしてくれる入り口になります。

出雲大社に立ち、日本海の水平線を眺めるとき。あるいは北上川のほとりで朝日を浴びるとき。そこに、遠い海を渡ってきたかもしれない人々の姿を思い描いてみる。その想像力こそが、神話と歴史を今の私たちにつなぐ橋なのだと思います。

まとめ

ドラヴィダ人と日本を結ぶ説は、国語学者の大野晋が唱えた日本語タミル語起源説として知られています。稲作や機織りの語彙、和歌の形式などに対応を見出した壮大な仮説でしたが、音韻対応の厳密さを欠くとして学界の定説にはなっていません。それでも大野が出雲に注目したことには理由があり、出雲は鉄と玉の技術が集まり、日本海の交流に開かれた特別な土地でした。

その出雲と東北には、ズーズー弁と呼ばれる方言の共通性という不思議なつながりがあります。東北の地には日高見国という古代の国の記憶が残り、アラハバキという記紀に載らない神が祀られてきました。ドラヴィダ人が東北へ渡って日高見国を築いたという説や、古代の空が今と違って見えたという語りは、証拠のない仮説ではありますが、日本という国が単一の物語では語りきれないことを、私たちに思い出させてくれます。

確かめられた事実を土台に置きながら、まだ答えの出ていない余白を楽しむ。日本神話と歴史の面白さは、まさにその余白の中にあるのだと思います。

語源・歴史・実践法をさらに深く知りたい方へ

祓え給い、清め給え

「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」の語源・歴史・実践法をさらに深く知りたい方へ。

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この記事を書いた人

日本神話と歴史
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