神武天皇は実在したのか|天照大御神から何代目か、紀元前660年という即位年の出どころ

神武天皇は実在したのか|天照大御神から何代目か、紀元前660年という即位年の出どころ

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祓え給い、清め給え

神武天皇は「天照大御神から五代目の子孫」と説明されることが多い神様です。ところが、記紀に書かれた系譜を実際に数えると6代になります。

なぜ1代ずれるのでしょうか。理由は、天照大御神とニニギノミコトのあいだにいる神が飛ばされやすいことにあります。この1柱を入れるか外すかで、神武天皇が何代目なのかが変わってしまうわけです。

このページでは、系譜を1代ずつ表で確認したうえで、紀元前660年という即位年がどこから出てきた数字なのか、皇后の父が記紀で入れ替わること、そして実在をめぐる議論までを整理します。東征の道のりは別に詳しいページを用意していますので、そちらへご案内します。

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神武天皇とは

項目内容
位置づけ記紀が記す初代天皇です
主な名神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
父鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
母玉依姫命(たまよりひめのみこと)
皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
即位の地大和の橿原宮(現在の奈良県橿原市)
即位年『日本書紀』の辛酉年。西暦に換算すると紀元前660年とされます
陵畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

名前の一覧と、混同しやすい1つの名

表記読み出典や使われ方
神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと『日本書紀』での主な名です
神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみこと『古事記』での表記です
磐余彦命いわれひこのみこと簡略にした呼び方です
若御毛沼命わかみけぬのみこと『古事記』が記す幼名にあたる名です
神武天皇じんむてんのう後世に贈られた漢風諡号です

注意したいのが「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」という名です。この名は本来、神武天皇の祖父である山幸彦の名です。ところが神社の由緒や一部の資料では神武天皇の名として記されることがあり、系譜を読むときに祖父と孫が入れ替わる原因になっています。

もう1つ、「神武天皇」という呼び名そのものも後からついたものです。奈良時代に淡海三船が歴代天皇に漢風の諡号を贈ったとされ、それ以前は磐余彦の名で呼ばれていました。記紀の本文を読むときは、この違いを頭に置いておくと混乱しません。

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天照大御神からの系譜を1代ずつ数える

記紀の記述どおりに並べると、神武天皇は天照大御神から数えて6代目になります。

代神名位置づけ
1天照大御神高天原の太陽の神です
2天忍穂耳命(アメノオシホミミ)天照大御神の子。降臨を息子に譲りました
3瓊瓊杵尊(ニニギ)天孫降臨で日向へ降ります。日向三代の1代目です
4彦火火出見尊(山幸彦)日向三代の2代目。海神の娘と結ばれます
5鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)日向三代の3代目。神武天皇の父です
6神日本磐余彦尊(神武天皇)東征して大和で即位しました

なぜ「五代目」と書かれることが多いのか

答えは単純で、2代目の天忍穂耳命が省かれることが多いからです。

天忍穂耳命は、一度は地上へ降るよう命じられながら実際には降らず、その役を息子のニニギに譲った神です。神話の筋のうえで動きがないため、系譜を要約するときに飛ばされやすい。結果として「天照大御神の孫がニニギ、その曾孫が神武」という数え方になり、5代という言い方が生まれます。

どちらが間違いというより、数え方が2通りあると理解するのが正確です。神武天皇はニニギから数えれば曾孫、天照大御神から数えれば5世の孫で6代目。この2つは矛盾していません。

筆者が気になるのは、省かれる神が「降りなかった神」だという点です。日向三代は降りてから大和へ向かうまでの3代を指しますが、その直前に、降りることを譲った代が挟まっている。天から地上への移動が一気に行われず、一度ためらわれてから子の代で実行される形になっているわけです。系譜を縮めて語ると、この間が消えてしまいます。

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即位はいつか、紀元前660年という数字の出どころ

『日本書紀』は、神武天皇の即位を「辛酉年の春正月庚辰の朔」と記しています。干支と日付だけで、西暦はもちろん書かれていません。

この辛酉年を西暦に当てはめたのが、明治になって定められた紀元です。歴代天皇の在位年数を積み上げて逆算し、即位を紀元前660年と算定しました。即位日を太陽暦に換算した2月11日が紀元節とされ、現在の建国記念の日につながっています。

ここで研究上よく指摘されるのが、辛酉という年の選び方です。中国から入った讖緯説(しんいせつ)では、辛酉の年に大きな革命が起こるとされ、さらに1260年を大きな節目とする考え方がありました。『日本書紀』の編者が、この思想に合う年に即位を置いたのではないかという見方が明治期以降に出されています。

つまり紀元前660年という数字は、観測や記録から出たものではなく、思想的な枠組みに沿って設定された可能性が高いということです。初期の天皇の在位年数が極端に長いことも、同じ逆算の都合から説明されます。

即位にあたって発せられたとされるのが、八紘を覆って家とするという言葉で知られる建国の詔です。

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東征の道のり

神武天皇の生涯で最も長く語られるのが、日向から大和へ向かった東征です。45歳で日向を発ち、瀬戸内を東へ進み、生駒山で長髄彦に大敗したあと紀伊半島を南へ大きく回り込み、熊野から大和に入りました。

途中で兄の五瀬命を失い、熊野では全軍が倒れています。そのとき高天原から下されたのが布都御魂剣で、吉野の山中では八咫烏が道案内をしました。

行程や滞在年数、史実性をめぐる議論は論点が多いため、別のページにまとめています。

東征に関わる主な神々と人物は、それぞれ単独のページがあります。

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皇后は誰の娘なのか、記紀で父が入れ替わります

神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命です。ところが、その父が記紀で違います。

項目『古事記』『日本書紀』
皇后の名伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)媛蹈鞴五十鈴媛命
父大物主神事代主神
母勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)記載が異なります

『古事記』では、三島の湟咋(みしまのみぞくい)の娘に大物主神が通って生まれた娘とされ、丹塗りの矢に化けて近づいたという話がついています。『日本書紀』では事代主神の娘です。

この違いは軽いものではないと思います。大物主神は大和の三輪山の神、事代主神は国譲りで真っ先に国を譲った出雲の神です。どちらを皇后の父とするかで、新しい王権が誰と結びついて正統性を得たのかという話が変わってきます。

東征は、先に大和にいた勢力を服させる物語でした。その締めくくりに土地の神の娘を皇后に迎えるという形は、征服ではなく婚姻による接続を示しています。記紀がそろって皇后を在来の神の娘としている点は、この物語の性格をよく表しています。

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神武天皇は実在したのか

記紀が記すとおりの人物が実在したと確かめる史料はありません。主な論点を整理します。

論点内容
年代が合いません紀元前660年は弥生時代にあたり、大和に統一的な王権があったとは考古学的に見にくいとされます
在位と寿命が長すぎます神武天皇は127歳で崩じたと記され、初期の天皇も同様に長寿です
欠史八代の問題第2代から第9代までは系譜のみで、事績の記述がほとんどありません
東遷説九州から大和へ勢力が移った記憶が物語の核にあるという見方があります
考古学からの理解纏向遺跡と前方後円墳の成立(3世紀ごろ)を大和王権の始まりとする理解が一般的です
地名と神社の実在行程上の地名や関連する神社が各地に残っており、何らかの伝承があったと考えられます

卑弥呼とはどちらが先なのか

よく並べて語られる2人ですが、記紀の年代をそのまま取れば神武天皇の即位が紀元前660年、卑弥呼が『魏志倭人伝』に現れるのは3世紀です。900年以上の開きがあります。

混同されやすいのは、神話の時代区分と考古学の時代区分が別の尺度でできているためです。神話は代を重ねる形で時間を示し、考古学は遺物の層で時間を区切ります。この2つは直接は重なりません。

一方で、紀元前660年という年が逆算で置かれたものだとすれば、東征の記憶が実際に対応する時期はもっと後になります。その場合は卑弥呼の時代と近づく可能性もあり、東遷説と邪馬台国の議論が結びつけて論じられるのはこのためです。断定はできませんが、問いの立て方としては面白いところだと思います。

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神武天皇陵と、祀る神社

陵は奈良県橿原市の畝傍山東北陵とされています。現在の形に整えられたのは幕末から明治にかけてのことで、それ以前は所在について複数の説がありました。考古学的な調査が行われていないため、実際の埋葬地かどうかは確かめられていません。

神社所在地ゆかり
橿原神宮奈良県橿原市即位の地と伝えられる橿原宮の跡に鎮座します
宮崎神宮宮崎県宮崎市東征の出発地である日向に鎮座します
狭野神社宮崎県高原町生誕の地と伝えられる社です
各地の神武天皇社全国行程上の地などに点在します

橿原神宮の創建は1890年(明治23年)です。初代天皇を祀る社としては比較的新しく、紀元節の制定や紀元の算定と同じ時期に整えられました。神武天皇をめぐる現在の形の多くが明治期に作られたものだという点は、押さえておきたいところです。

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筆者の考察

神武天皇について、実在したかどうかを一つの答えで決めるのは難しいと考えています。

即位の年とされる紀元前660年は、在位年数の逆算で置かれた数字です。寿命は127歳と記され、続く第2代から第9代までは系譜だけで事績の記述がほとんどありません。この欠史八代の空白を見ると、人物として記録が残っていたとは考えにくいところがあります。

一方で、九州から大和へ移動する東征の筋立ては、勢力の移動という出来事の記憶が核になっているという見方があります。人物としての神武天皇と、物語に残された出来事の記憶は、分けて考えたほうが実情に近いのではないでしょうか。

天照大御神から何代目かという数え方が2通りあることも、系譜が後から整えられた形跡だと思います。1柱を入れるか外すかで5代と6代が分かれる。系譜は、血のつながりを記録したものというより、正統性を示すために組み立てられた図なのだという前提で読む必要があります。

よくある質問

神武天皇は天照大御神から何代目ですか

記紀の系譜どおりに数えると6代目、5世の孫にあたります。天忍穂耳命を省く数え方では5代目と表現されます。

即位した年はいつですか

『日本書紀』は辛酉年の正月1日と記しています。これを逆算して西暦に当てはめると紀元前660年にあたりますが、この年代をそのまま史実とは見ない考え方が一般的です。

神武天皇の読み方と本当の名は何ですか

「じんむてんのう」と読みます。神武は後世に贈られた漢風諡号で、記紀での名は神日本磐余彦尊、または神倭伊波礼毘古命です。

何歳まで生きたとされていますか

『日本書紀』は127歳、『古事記』は137歳と記しています。初期の天皇はいずれも長寿で記されており、年代の逆算と関係があると考えられています。

神武天皇の子孫が今の天皇家ですか

記紀および歴代天皇の系譜では、神武天皇を初代として現在までつながる形で記されています。ただし初期の系譜については史料的な裏づけがありません。

八咫烏との関係は何ですか

東征の後半、熊野から吉野の険しい山中を抜けるときに道案内をした鳥とされます。天から遣わされた神の使いとして描かれています。

まとめ

神武天皇をめぐる数字は、どれも後から置かれたものでした。紀元前660年という即位年は在位年数からの逆算、2月11日という日付は太陽暦への換算、神武という名は奈良時代の諡号、橿原神宮は明治の創建です。

それでも物語の骨格には、作りものでは説明しにくい部分が残っています。東征で一度大敗すること、兄を失うこと、遠回りをすること、そして最後に土地の神の娘を皇后に迎えること。勝ち続ける英雄譚にしたいなら、どれも書く必要のない要素です。

系譜を5代と縮めると、降りることを譲った代が消えます。年代を紀元前660年と置くと、考古学との接点が切れます。神武天皇を読むときは、整えられた数字をいったん外して、物語そのものが何を残そうとしたのかを見るほうが面白いと思います。

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