同和問題とは?江戸の身分制度から解放令・水平社まで|穢れ観念は原因だったのか

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学校で、士農工商のピラミッドの下にもう1段が描かれた図を見た記憶はないでしょうか。あの図は、現在の歴史学ではもう使われていません。
理由は2つあります。そもそも「士農工商」という言葉は身分の序列を示すものではなく、中国の古典に由来する「民全体」を指す言い方だったこと。そしてもう1つ、江戸時代の身分制度は全国一律の整然としたピラミッドではなく、地域ごとに呼称も扱いもかなり違っていたことです。
同和問題を考えるとき、この出発点を間違えると最後まで話がずれていきます。このページでは、江戸時代に何が起きたのか、神道の穢れという観念はそこにどう関わったのか、1871年の解放令が何をもたらしたのか、そして戦後の33年にわたる特別法が何だったのかを、順を追って整理します。
先にお伝えしておくと、このページでは特定の地名を一切書きません。その理由は最後の章で説明します。
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同和問題とは何か、言葉の整理から
この分野は言葉が複雑で、同じものを指す語がいくつもあります。先に整理しておきます。
| 語 | 意味 |
|---|---|
| 同和問題 | 行政が用いる呼び方。昭和初期の「同胞一和」などの語に由来するとされます |
| 部落問題 | 研究や運動の側でよく使われる呼び方。指す内容は同和問題と同じです |
| 同和地区 | 同和対策事業の対象として行政が指定した地区を指す行政用語です |
| 同和対策事業 | 1969年から2002年まで特別法にもとづいて行われた事業の総称です |
| 解放令 | 1871年に身分呼称を廃止した太政官布告。賤民廃止令とも呼ばれます |
1965年の同和対策審議会答申は、同和問題をこう定義しました。日本社会の歴史的発展の過程で形成された身分階層構造にもとづく差別により、国民の一部が経済的・社会的・文化的に低い状態に置かれている問題であり、その早急な解決は国の責務であって同時に国民的課題である、と。
この答申が、戦後の同和行政すべての出発点になります。ここは後の章でもう一度出てきます。
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「士農工商の下」という説明が不正確な理由
江戸時代の身分制度については、長く誤った図式が教えられてきました。整理しておきます。
| かつての説明 | 現在の理解 |
|---|---|
| 士農工商という4段階の序列があった | 中国古典に由来する「民全体」を指す語で、序列を示すものではありません |
| その下にさらに身分が置かれた | 武士と庶民という区分が基本で、整然としたピラミッドではありませんでした |
| 全国一律の制度だった | 呼称も扱いも地域差が大きく、統一された制度ではありませんでした |
| 幕府が新たに作り出した | 中世からあった職能集団が、近世に身分として固定されたという理解です |

重要なのは4番目です。江戸幕府がある日ゼロから身分を作ったのではなく、中世の段階ですでに特定の仕事を担っていた集団が、幕藩体制のもとで身分として固められていった、という流れになります。
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どのような仕事を担っていたのか
ここが見落とされがちなところです。差別された人々は「必要とされていなかった人々」ではありませんでした。むしろ逆です。
| 仕事 | 社会にとっての意味 |
|---|---|
| 斃牛馬の処理 | 死んだ牛馬を片付ける役。農村の衛生を保つために不可欠でした |
| 皮革の生産 | 武具・馬具・太鼓に使われます。武家社会の軍事需要に直結していました |
| 灯心の製造 | 灯りの芯。照明が灯心に頼っていた時代の生活必需品です |
| 履物や細工物 | 竹細工、草履など日用品の生産を担いました |
| 刑吏役・牢番 | 幕府や藩の司法を実務として支える役でした |
| 清掃・警固 | 町の治安と衛生を担う役を割り当てられていました |
| 芸能 | 中世以来、芸能や祭礼に関わる集団もありました |
皮革は武士の装備に欠かせません。灯心がなければ夜の明かりがありません。死んだ家畜を処理する人がいなければ村は成り立ちません。これらは社会の土台を支える仕事で、しかも技術を要するものでした。
つまり構造はこうなります。社会が必要としながら、担い手を低く位置づけることで、その仕事を特定の人々に固定した。必要とされていたことと、低く扱われたことが、同時に成り立っていたわけです。
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神道の穢れ観念が原因だったのか
このページを神道や日本の歴史を扱うサイトに置く意味は、ここにあると思っています。死や血を穢れとする神道の観念が差別の原因だった、という説明をよく見かけます。これは正確でしょうか。
穢れは、祓えば清まるものです
神道における穢れは、本来一時的な状態として扱われます。触れれば穢れ、祓えば清まる。禊をし、祓いを受ければ元に戻る。これが基本の考え方です。

ここが決定的です。穢れという観念は、生まれによって一生変わらない身分を説明する論理になりません。むしろ穢れ観念の作りは「元に戻れる」ことを前提にしています。世襲の身分を正当化するには、むしろ穢れ観念に反する運用が必要になります。
服忌令が示していること
江戸幕府は服忌令という法令を定めていました。近親者が亡くなったとき、どの関係なら何日間喪に服し、何日間忌に服するかを定めたものです。

注目したいのは、死の穢れが日数で区切られ、期間が過ぎれば解除される仕組みになっていたことです。幕府自身が、穢れを期限つきの状態として制度化していました。
武士が亡くなっても、その家が代々低い身分に落ちるわけではありません。同じ死の穢れを扱いながら、一方は日数で解除され、一方は世襲として固定された。この差は、穢れという観念からは出てきません。
仏教の殺生戒との重なり
もう1つの要素が仏教です。殺生を戒める教えが広まるなかで、獣を屠り肉や皮を扱う仕事への忌避が強まったことは指摘されています。神仏習合のもとで、神道の穢れと仏教の殺生戒が二重に重なったという見方です。
ただ、これも単純な因果ではありません。皮革は武家社会が必要とした物資であり、幕府はその生産を止めていません。教えとしては忌避しながら、物としては使い続けた。この矛盾を処理する方法として、担い手を社会の外側に置くという形が選ばれたと考えることもできます。
筆者の見方
筆者は、穢れ観念が差別を生んだのではなく、順番が逆だったと考えています。
先にあったのは、特定の仕事を特定の人々に固定したいという支配の都合です。そのうえで、すでに人々が共有していた穢れという言葉が、その固定を説明するために後から持ち出された。穢れは原因ではなく、合理化のために使われた語彙だったという見方です。
この順番は、現代を考えるうえでも意味があると思います。何かを正当化したいとき、人は手元にある言葉を使います。江戸時代には穢れという言葉がありました。では現代に、同じ役割を果たしている言葉はないでしょうか。差別を支える語彙は時代ごとに入れ替わるだけで、仕組みのほうは案外しぶとく残ります。
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異民族起源説は否定されています
差別された人々は日本人とは別の民族の子孫だ、という説が流布したことがあります。これは学術的に否定されています。
根拠はありません。中世から近世の記録が示しているのは、職能や居住によって区分された集団だったということで、民族的な出自による区分ではありません。この説は明治以降に広まり、差別を自然なものとして説明するために使われてきたものです。
念のため書いておくと、この説を否定することは「だから差別はなかった」という話ではありません。制度としての差別は実在しました。出自の説明が誤っている、というだけのことです。
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1871年の解放令と、その副作用
1871年(明治4年)、明治政府は太政官布告を出し、それまでの身分呼称を廃止して、身分も職業も平民と同様とすることを定めました。これが解放令です。
ところが、この布告は差別を終わらせませんでした。それどころか、生活を悪化させた面があります。
| 起きたこと | 内容 |
|---|---|
| 職業上の独占の喪失 | 斃牛馬処理などの独占的な権利を失い、他業者が参入しました |
| 補償や支援の欠如 | 呼称を廃止しただけで、生活の基盤を整える施策は伴いませんでした |
| 反対一揆の発生 | 解放令に反対する暴動が各地で起き、襲撃を受けた地域もありました |
| 戸籍への記載 | 新たな戸籍に旧身分をうかがわせる記載が残り、後の身元調査の材料になりました |
1872年に作られた戸籍は、後に差別的な記載が問題となり、1968年以降は一般の閲覧ができないよう封印されています。制度として作られた記録が、100年後まで差別の道具として残り続けたということです。
名称を廃止しただけでは何も解決しない、という教訓がここにあります。呼び方を変えることと、暮らしの条件を変えることは別の作業です。
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1922年、全国水平社の創立
1922年(大正11年)3月3日、京都市で全国水平社が創立されました。差別された当事者たちが自ら立ち上げた組織で、日本の人権運動の原点として位置づけられています。
創立大会で読み上げられた水平社宣言は、西光万吉が起草したとされます。西光は浄土真宗の寺に生まれた人物でした。宣言は「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉で結ばれています。

この宣言の性格をどう見るかは、後の章につながる論点でもあります。施しを待つのではなく自ら尊厳を宣言したという点で、これは明確に人権運動の到達点です。水平社の歴史を否定する形で同和行政を論じることはできません。ここは押さえておきたいところです。
戦後、水平社の流れを受けて1946年に部落解放全国委員会が結成され、1955年に部落解放同盟へと改称されます。
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1965年の答申と、33年続いた特別法
1965年、同和対策審議会が答申を出し、解決を国の責務と明記しました。これを受けて1969年に同和対策事業特別措置法が成立します。10年の時限立法でした。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1965年 | 同和対策審議会答申。解決は国の責務であり国民的課題と明記されます |
| 1969年 | 同和対策事業特別措置法。10年の時限立法として成立します |
| 1979年 | 期限を3年延長します |
| 1982年 | 地域改善対策特別措置法に切り替わります |
| 1987年 | 地対財特法に切り替わり、以後も延長が重ねられます |
| 1997年 | 大半の事業がこの年度末で終了します |
| 2002年 | 3月末で法律が失効。特別法の時代が終わります |
| 2016年 | 部落差別解消推進法が成立。理念を定めた法律です |
この33年間に投じられた事業費は、国と地方を合わせて15兆円規模とされます。住宅、道路、上下水道、学校、集会所などの整備が進み、住環境の格差は大きく改善されました。これは事実として確認されています。
一方で、この巨額の公金が動く仕組みそのものが別の問題を生みました。事業を受けるための窓口が特定の団体に一本化され、公金の流れに不正が入り込み、政府自身が1986年にその弊害を公式に批判するという事態になります。
この部分は論点が多く、公的な文書と判決にもとづいて丁寧に扱う必要があるため、別のページにまとめました。
このページで地名を書かない理由
検索すると、特定の地名の一覧や地図を探す調べ方が非常に多いことが分かります。このページではそれを書きません。理由を説明します。
1930年代に作成された『全国部落調査』という資料があります。地区名を一覧にしたもので、戦前の団体が調査したものです。2016年、この資料を復刻して出版・公開しようとした動きに対して訴訟が起こされました。2021年に東京地裁、2023年に東京高裁が判決を出し、その大部分について公開の差止めと賠償が命じられています。
裁判所が認めたのは、地名のリストが公開されれば、そこに住む人や出身の人が結婚や就職で不利に扱われる具体的な危険が生じる、ということです。地名そのものに差別的な言葉は含まれていません。それでも、リストの形で出回ることが被害を生むと判断されました。
歴史を知ることと、特定の場所や人を名指しすることは別の行為です。前者は誰にとっても有益ですが、後者は現に生活している人の暮らしを直接に壊します。
もし結婚や就職にあたって相手の出身を調べようとしてこのページに来られたのなら、1つだけ申し上げたいことがあります。それは調べる意味がないことです。出自は人の性質を何も説明しません。そして、調べて判断材料にする行為そのものが、就職差別・結婚差別として長く問題にされてきたものです。
よくある質問
同和問題と部落問題は違うものですか
同じ問題を指しています。同和問題は行政が用いる呼び方、部落問題は研究や運動の側でよく使われる呼び方です。
江戸時代の身分呼称を今使ってよいのですか
歴史を説明するために史料上の語を引く場合はありますが、人を指して使う言葉ではありません。現在は差別語として扱われます。
解放令で差別は終わらなかったのですか
終わりませんでした。呼称を廃止しただけで生活基盤の施策が伴わず、職業上の独占を失って生活が苦しくなった地域もあります。反対一揆も各地で起きました。
神道が差別の原因なのですか
そう言い切ることはできません。神道の穢れは祓えば清まる一時的な状態として扱われ、世襲の身分を説明する論理になりません。穢れという語は、すでに固定されていた身分を後から説明するために使われたという見方が自然です。
同和対策事業はいつ終わったのですか
大半の事業は1997年度末で終了し、特別法そのものは2002年3月末に失効しました。1969年から数えて33年間です。
今も差別は残っていますか
住環境の格差は大きく改善されました。一方で、結婚や就職に関する意識調査では差が確認されることがあり、インターネット上での地名の拡散も問題になっています。
まとめ
江戸時代に差別された人々が担っていたのは、皮革、灯心、斃牛馬の処理、司法の実務といった、社会がなければ困る仕事でした。必要とされながら低く置かれる。この組み合わせが身分として固定されたのが、同和問題の出発点です。
神道の穢れという観念は、その固定を後から説明するために使われた言葉だったと筆者は考えています。穢れは本来、祓えば清まるものです。一生変わらない身分を支える論理ではありません。
1871年の解放令は呼称を廃止しただけで、暮らしの条件を変えませんでした。1922年の水平社宣言は、当事者自身が尊厳を宣言した日本の人権運動の原点です。そして1969年からの33年間、15兆円規模の事業が住環境を大きく改善しました。
ここまでが、おおよそ争いのない事実です。問題はこの先にあります。巨額の公金が動く仕組みが何を生んだのか。それは政府自身が1986年に公式文書で指摘し、裁判所が判決で認定してきたことでもあります。続きは別のページでご覧ください。






