浄土真宗のお盆はなぜ迎え火も精霊馬もないのか?歓喜会という考え方を解説

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お盆といえば、迎え火を焚き、精霊馬を作り、ご先祖様の霊をお迎えする行事です。ところが浄土真宗のお寺や門徒の家では、迎え火も送り火も焚かず、精霊馬も作りません。
これは手を抜いているのでも、信心が薄いのでもありません。教えの根本が違うからです。この記事では、浄土真宗がお盆をどう捉えているのか、なぜ霊を迎えないのか、歓喜会という呼び名の意味、そして門徒の家でのお盆の過ごし方まで、他宗派との違いを整理しながら解説します。
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浄土真宗にはお盆がないのでしょうか
まず結論から申し上げると、浄土真宗にもお盆はあります。ただし、その意味づけがまったく異なります。
一般的なお盆は、亡くなった方の霊がこの世に帰ってくるので、迎えて供養し、送り出すという行事です。しかし浄土真宗では、亡くなった方は霊としてさまよったり、どこかで苦しんだりしてはいないと考えます。
浄土真宗の教えの中心は、阿弥陀如来の本願です。念仏を称える者は、亡くなると同時にただちに阿弥陀如来の浄土へ往生し、仏となるとされます。これを臨終即往生といいます。
すでに仏になっておられるのですから、迷って帰り道がわからなくなることもありません。ですから道しるべとしての迎え火は必要ありませんし、乗り物としての精霊馬も要らないのです。餓鬼道で苦しんでいるという前提も成り立ちません。

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歓喜会という呼び名
浄土真宗では、お盆を歓喜会(かんぎえ)と呼ぶことがあります。歓び喜ぶ会、という字を当てます。
亡くなった方は仏となり、私たちを導いてくださる存在になった。悲しみに沈む日ではなく、その事実をあらためて喜び、感謝する日である。だから歓喜会なのです。
そしてもうひとつ大切な意味があります。浄土真宗のお盆は、亡き人を供養する日ではなく、生きている自分が仏法に出会い直す日と位置づけられています。故人を偲ぶことをきっかけに、自分自身が阿弥陀如来の教えに触れる。供養する側とされる側という関係ではなく、亡き人が私を仏法に導いてくれるという発想の転換がここにあります。
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他宗派との違いを整理します
| 項目 | 一般的な宗派 | 浄土真宗 |
|---|---|---|
| 亡くなった方の状態 | 成仏までに時を要する。供養が必要 | 臨終と同時に浄土へ往生し仏となる |
| お盆の意味 | 帰ってくる霊を迎え供養する | 仏法に出会い、感謝する日(歓喜会) |
| 迎え火・送り火 | 焚く | 基本的に焚かない |
| 精霊馬 | 作る | 作らない |
| 盆棚(精霊棚) | 設ける | 設けない。仏壇を丁寧に荘厳する |
| 水の子・お膳 | 供える | 供えない。お供えは仏様への感謝として |
| 位牌 | 用いる | 基本的に用いず、過去帳や法名軸を用いる |
一覧にすると違いの大きさに驚かれるかもしれません。ただし、これは教義上の原則であって、実際には地域の慣習と混ざり合っている家庭も少なくありません。ご実家で長年続けてきた形があるなら、それを頭から否定する必要はないでしょう。気になる場合は菩提寺のご住職に尋ねるのが確実です。
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浄土真宗の家では何をするのでしょうか
迎え火も精霊馬もないとなると、何をすればよいのか迷われるかもしれません。実際には、次のようなことを行います。
まず、お仏壇を丁寧に掃除し、打敷(うちしき)を掛け、仏花や供物を整えて荘厳(しょうごん)します。荘厳とは、仏様をお飾りしお迎えすることです。お供えするのは、ご飯(仏飯)、餅、菓子、果物などで、いずれも阿弥陀如来へのお供えという位置づけになります。
NEWそして家族で正信偈(しょうしんげ)などのお勤めをします。お寺で営まれる歓喜会の法要に参列したり、僧侶に読経していただいたりする家庭も多くあります。お墓参りもごく普通に行います。
NEWやることの多くは他宗派と重なっています。違うのはその行いに込める意味です。霊を迎えるためではなく、仏となられた方への感謝と、自分が仏法に触れるために行う。同じ手を合わせるという動作に、異なる意味が乗っているのです。
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なぜ浄土真宗はこの立場をとるのでしょうか
この違いは、開祖である親鸞聖人の教えの徹底ぶりから生まれています。
浄土真宗では、往生は阿弥陀如来のはたらきによるものであって、人間の側の行いによって左右されるものではないと考えます。これを他力本願といいます。本来は、自分の力ではなく阿弥陀如来の本願の力によって救われるという、きわめて厳密な教義用語です。
この立場に立つと、生きている者が供養することで死者の状態が良くなる、という考え方は成り立ちません。もし供養によって救いが変わるのなら、それは人間の行いが往生を左右することになり、他力の教えと矛盾してしまうからです。
同じ理由から、浄土真宗では迷信的な習俗を戒める傾向があります。友引に葬儀を避ける、清めの塩を用いる、方角の吉凶を気にするといったことも、教義上は必要ないとされます。徹底した合理性が、この宗派の大きな特徴なのです。
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神道の家のお盆はどうなるのでしょうか
あわせて触れておきたいのが、神道の家の場合です。お盆は仏教行事ですが、神道にも祖先をお祀りする行事があります。
神道の家では、仏壇にあたるものとして祖霊舎(それいしゃ)をお祀りします。お盆の時期には新盆祭(にいぼんさい)や祖霊祭を営み、神職を招いて祭詞を奏上していただくこともあります。ただし、神道では死を穢れと捉えるため、祖霊舎は神棚とは分けてお祀りするのが基本です。
お供えするのは、米、酒、塩、水、そして季節のものです。神饌としてお供えし、二礼二拍手一礼で拝礼します。ただし忌中の期間の拍手は、音を立てない忍び手とする作法もあります。

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筆者の考察
浄土真宗のお盆の考え方を知ったとき、筆者は少し驚きました。日本のお盆といえば、霊が帰ってくるという前提が揺るぎないものだと思っていたからです。
しかし考えてみれば、日本最大の門徒数を持つ宗派が、その前提を採らないと明言している。これは日本の宗教のありようを考えるうえで、とても示唆に富む事実です。
そしてもうひとつ興味深いのは、それでも浄土真宗の家がお盆に何もしないわけではないという点です。仏壇を整え、家族が集まり、お墓参りをして、手を合わせる。やっていることは他宗派とほとんど同じなのです。違うのは、その行為をどう説明するかという部分だけとも言えます。
ここに、日本人と宗教の距離感がよく表れているように思います。教義は教義として厳密に守りつつ、暮らしの営みとしてのお盆は共有する。祖先を思う気持ちは宗派を超えて共通しており、その気持ちに宗派ごとの言葉が与えられているだけなのかもしれません。
亡き人を、救うべき存在と見るのか、すでに救われて自分を導いてくれる存在と見るのか。どちらの捉え方にも、遺された人が前を向いて生きるための力があります。ご自身の家の宗派の考え方を知ることは、お盆をより深く過ごすきっかけになるはずです。

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まとめ
浄土真宗にもお盆はありますが、亡くなった方は臨終と同時に浄土へ往生して仏となるという教えのため、霊を迎えるという発想を採りません。そのため迎え火や送り火、精霊馬、盆棚を用いないのが基本です。
NEW浄土真宗ではお盆を歓喜会と呼び、亡き人を供養する日ではなく、仏となられた方に感謝し、自分が仏法に出会い直す日と位置づけます。仏壇を丁寧に荘厳し、正信偈をお勤めし、お墓参りをするという営みは他宗派と変わりません。祖先を思う気持ちは同じで、それをどう説明するかが違うのだと考えると、宗派の違いも受け止めやすくなります。





