古史古伝とは?一覧でわかる8つの文献|なぜ偽書とされるのか、それでも読む意味

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竹内文書、宮下文書、ホツマツタヱ、カタカムナ、東日流外三郡誌。
これらをまとめて古史古伝(こしこでん)と呼びます。『古事記』や『日本書紀』とは異なる古代史を記したとされる文献群です。
学術の世界では、その多くが偽書と判定されています。それでも読み継がれ、調べる人が絶えません。なぜでしょうか。
この記事では、古史古伝と呼ばれる文献を一覧に整理し、なぜ偽書とされるのかという判定の物差しを示し、そのうえでこれらをどう読めばよいのかを考えます。信じるか信じないかという話ではなく、どう扱うかという話です。
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古史古伝とは何を指すのでしょうか
古史古伝とは、記紀に書かれていない古代の歴史を伝えるとされる文献の総称です。超古代史文献、偽史、古伝といった呼び方もされます。
共通する特徴が、いくつかあります。
| 特徴 | 中身 |
|---|---|
| 記紀より古いと称する | 『古事記』『日本書紀』が隠した真実を伝えると主張します |
| 世に出たのが新しい | ほとんどが江戸後期から昭和にかけて公開されました |
| 原本が確認できない | 写本しかない、あるいは焼失したとされる例が多くあります |
| 独自の文字を用いる | 神代文字と呼ばれる文字で記されているものがあります |
| 天皇の系譜が長大 | 神武天皇より前に何十代もの王朝があったとするものがあります |
注目していただきたいのは二番目です。記紀より古いと称する文献が、実際に世に出たのは近世から近代である。この時間のねじれが、古史古伝を考えるうえでの出発点になります。
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主な古史古伝の一覧
代表的なものを、世に出た時期の順に並べます。
| 文献 | 読み | 世に出た時期 | 内容の特徴 |
|---|---|---|---|
| 先代旧事本紀大成経 | せんだいくじほんぎたいせいきょう | 江戸前期 | 全72巻。幕府が絶版処分としました |
| 上記 | うえつふみ | 江戸後期 | 豊後国に伝わり、豊国文字で記されるとされます |
| 宮下文書 | みやしたもんじょ | 明治期 | 富士山麓に古代王朝があったと伝えます |
| 竹内文書 | たけうちもんじょ | 大正から昭和初期 | 超古代の天皇と、世界の聖者の来日を記します |
| 九鬼文書 | くかみもんじょ | 昭和前期 | 熊野の九鬼家に伝わるとされます |
| カタカムナ | かたかむな | 昭和中期 | 渦巻き状の図形で記された歌から成ります |
| ホツマツタヱ | ほつまつたえ | 昭和中期 | 五七調の長歌で神代を語ります |
| 東日流外三郡誌 | つがるそとさんぐんし | 昭和後期 | 東北に独自の王朝があったと伝えます |
このほかにも、秋田の唐松神社に伝わるとされる物部文書などがあります。
それぞれの入口
個別の内容については、それぞれの記事で詳しく扱っています。

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なぜ偽書とされるのでしょうか
偽書という言葉には、強い響きがあります。ただ、これは感情的な断定ではなく、決まった物差しにもとづく判定です。その物差しを知っておくと、見方がずいぶん整理されます。
| 判定の物差し | 何を見るのか |
|---|---|
| 伝来が追えるか | 誰がいつ誰に伝えたのかを、外部の記録で確かめられるかを見ます |
| 言葉が時代に合うか | 古代の文献に、後世にしか存在しない語や表記が混じっていないかを調べます |
| 知識の出どころ | 当時知られていなかったはずの知識が書かれていれば、後世の混入が疑われます |
| 公開の経緯 | 誰が発見し、その人物に利害がなかったかを確かめます |
| 物そのものの年代 | 紙や墨を調べれば、書かれた時期の見当がつきます |
この物差しを当てると、多くの古史古伝が近世から近代の成立と判定されます。なかでも決定的なのは、二番目の言葉の問題です。
言葉は時代とともに変わります。古代には存在しなかった語が文中にあれば、その部分は後から書かれたことになります。これは書き手の意図とは無関係に残る痕跡ですので、ごまかしようがありません。
東日流外三郡誌については、発見者が自ら書いたものであるという見方が学界の通説となっています。竹内文書は、公開当時から不敬をめぐる裁判になりました。先代旧事本紀大成経は、江戸幕府が絶版を命じ、関わった者が処罰されています。
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それでも読む意味はあるのでしょうか
ここが、この記事でいちばん申し上げたい部分です。
偽書は、書かれた時代の資料としては一級品です
古代史の資料としては使えない。この点は認めるほかありません。
しかし視点を変えると、まったく別の価値が見えてきます。偽書は、それが作られた時代の思想を映す資料としては、きわめて優れているのです。
なぜなら、人が架空の歴史を書くとき、そこには必ず願望が入ります。何が足りないと感じていたのか、何を誇りたかったのか、どんな不安を抱えていたのか。作り物だからこそ、書いた人の本心が透けて見えます。
| 文献 | 書かれた時代の状況 | そこに読める願い |
|---|---|---|
| 宮下文書 | 明治の国家建設期 | 自分たちの土地にも古代王朝があったとしたい |
| 竹内文書 | 大正から昭和の国際的緊張 | 日本が世界の中心であったとしたい |
| ホツマツタヱ | 国学が広まった後の時代 | 漢字以前の純粋な日本語を取り戻したい |
| 東日流外三郡誌 | 中央と地方の格差が語られた時代 | 東北にも独自の歴史があったとしたい |
並べてみると、はっきりした傾向があります。中央の歴史に入れてもらえなかった側が、自分たちの物語を書いている。古史古伝とは、そういう文献群なのです。

記紀もまた、書かれた目的を持っています
公平を期すために、もうひとつ述べておきます。
『古事記』も『日本書紀』も、政治的な目的をもって編まれた書物です。天皇の統治を正当なものとして示すために作られました。ですから、書かれていることがすべて事実であるとは、研究者も考えていません。
では記紀と古史古伝の違いはどこにあるのか。成立の経緯が追えるかどうかです。記紀は、いつ誰の命で編まれ、どう伝わってきたかが、別の記録によって裏づけられます。古史古伝の多くには、それがありません。
ですから両者の差は、内容の正しさではなく、確かめられる度合いの差だといえます。記紀が完全に正しいわけでもなく、古史古伝が完全に無価値でもない。ただ、扱い方が違う。それだけのことです。
混ぜないことが、唯一の作法です
筆者が大事だと考えているのは、この一点だけです。
記紀に書かれていることと、古史古伝に書かれていることを、同じ調子で並べてはいけません。並べた瞬間に、どちらも信用を失います。
これは記紀を上に置くという話ではありません。出どころの性質が違うものを、同じ棚に置かないという話です。史料として使えるもの、説として面白いもの、思想史の資料として読めるもの。棚を分けておけば、どれも捨てずに済みます。
古史古伝を楽しむ人にとっても、この分別はむしろ得になります。偽書だから読む価値がないと片づけられずに済むからです。作られたものであることを認めたうえで、何を読み取るかを語れば、議論として成り立ちます。
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古史古伝が人を惹きつける理由
記紀には、明らかに欠けている部分があります
古史古伝が求められてきた背景には、記紀の側の事情もあります。
たとえば富士山です。日本を代表する山でありながら、『古事記』にも『日本書紀』にも出てきません。東北の歴史についても、記紀はほとんど語りません。出雲についても、国譲りという形で片づけられています。

空白があれば、人はそこを埋めたくなります。宮下文書が富士を語り、東日流外三郡誌が東北を語ったのは、偶然ではありません。記紀が書かなかった場所から、代わりの物語が立ち上がってきたのです。
神代文字への憧れ
もうひとつの動機が、文字の問題です。
日本語を書き記すために、私たちは中国から来た漢字を使っています。この事実は、国学が盛んになった時代の人々にとって、どこか痛いところでした。漢字が来る前、日本に固有の文字はなかったのか。
この問いに対して、あった、と答えるのが神代文字です。そして古史古伝の多くが、この文字で書かれていると称しています。カタカムナの渦巻き状の図形も、ホツマツタヱの文字も、その系譜にあります。
学術的には、これらの文字は近世以降に作られたものと考えられています。ただ、こうした文字を作ってまで固有の文化を示したかったという気持ち自体は、事実として残ります。そこには、外来のものを受け入れ続けてきた国の、微妙な自尊心が映っています。
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古史古伝についてよくある質問
古史古伝はすべて偽書なのですか
学術的には、そのほとんどが後世の成立と判定されています。ただし、内容のすべてが創作とは限りません。地域に伝わってきた伝承や、実際の地名や祭祀が取り込まれている場合があります。全体としては後世の編纂物でありながら、部分に古い要素が残っている、という見方はありえます。
研究者はなぜ真剣に取り合わないのですか
取り合っていないわけではありません。古代史の資料としては扱えないという判断がなされているだけで、思想史や民俗学の対象としては研究されています。誰がいつ何のために作ったのかという問いは、学問として成り立つ問いです。
カタカムナやホツマツタヱから何か学べますか
古代の事実を学ぶことはできません。しかし、日本語の音に意味を見出そうとする発想や、五七調で神代を語ろうとする感覚そのものは、この国の言語観を映しています。言霊という考え方の延長として読むと、興味深い点が多くあります。
古史古伝を信じている人を否定すべきですか
そうは思いません。ただ、事実として述べるのか、説として述べるのかは区別していただきたいと思います。区別さえされていれば、どちらの立場でも話ができます。混同されたときに、議論が成り立たなくなるのです。
先代旧事本紀は古史古伝に入るのですか
扱いが分かれます。十巻から成る先代旧事本紀は平安期の成立とする見方があり、物部氏に関する貴重な記述を含みます。一方、江戸期に現れた全72巻の大成経は、後世の偽作とされています。同じ名を持つ別の書物として考える必要があります。
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まとめ
古史古伝とは、記紀とは異なる古代史を伝えるとされる文献群です。竹内文書、宮下文書、ホツマツタヱ、カタカムナ、東日流外三郡誌などが知られ、その多くは江戸後期から昭和にかけて世に出ました。
伝来が追えない、言葉が時代に合わない、公開の経緯に問題がある。こうした物差しによって、学術的には偽書と判定されています。
しかし、作られた時代の思想を映す資料としては一級品です。中央の歴史に入れてもらえなかった側が、自分たちの物語を書く。古史古伝を並べると、その構図がはっきり見えてきます。事実と説を混ぜない。その一点を守れば、これらは十分に読む価値のある文献群だと筆者は考えています。










