織田信長の死因は?本能寺の変の真相と明智光秀の動機の諸説、遺体が見つからない謎まで解説

織田信長の死因は?本能寺の変の真相と明智光秀の動機の諸説、遺体が見つからない謎まで解説

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祓え給い、清め給え

1582年6月2日未明、京都・本能寺。天下統一を目前にした織田信長は、家臣・明智光秀の突然の謀反によって49年の生涯を閉じました。しかし「信長の死」には、今も解けない謎が数多く残されています。直接の死因は何だったのか。なぜ遺体が見つからなかったのか。そもそも光秀はなぜ主君を討ったのか。

この記事では、織田信長の死因をめぐる史実と諸説、本能寺の変の経過、明智光秀の動機に関する主要な説の比較、遺体消失の謎、そして「神になろうとした信長」という興味深い記録まで、わかりやすく解説します。

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織田信長の死因は?定説は本能寺での自害

信長の死因は、本能寺の変における自害(切腹)というのが定説です。『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、明智軍に囲まれた信長は、弓や槍で自ら応戦したのち肘に槍傷を受け、もはやこれまでと御殿の奥に入り、内側から納戸を閉めて自害したと記されています。寺には火がかけられ、御殿は焼け落ちました。

享年49。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」──信長が好んで舞った『敦盛』の一節そのままの、あまりに劇的な最期でした。ただし、御殿が全焼したため自害の瞬間を見届けた記録はなく、切腹だったのか、炎の中で果てたのか、正確な最期の様子は誰にもわかっていません。

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本能寺の変とは?経過を簡単に

当時の状況を整理しておきましょう。信長は中国地方の毛利氏を攻める羽柴(豊臣)秀吉の応援に向かう途中、わずかな供回りだけで本能寺に宿泊していました。一方、同じく出陣を命じられていた明智光秀は、1万3,000の軍勢を率いて進路を京都へ変え、「敵は本能寺にあり」と本能寺を急襲します。

日時(1582年)出来事
6月1日夜光秀、亀山城から出陣。「敵は本能寺にあり」と進路変更
6月2日未明明智軍1万3,000が本能寺を包囲・攻撃。信長自害(享年49)
6月2日朝嫡男・信忠も二条御新造で自害
6月13日中国大返しで戻った秀吉が山崎の戦いで光秀を破る。光秀は敗走中に落命

謀反からわずか11日で光秀も命を落としたため、動機を語る本人の記録はほとんど残らず、これが「本能寺の変ミステリー」を生む最大の原因となりました。

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なぜ光秀は信長を討ったのか、動機をめぐる諸説

本能寺の変の動機については、江戸時代から現代まで無数の説が唱えられてきました。主要なものを整理します。

内容評価
怨恨説人前での叱責や領地問題など、積み重なった恨みによる犯行江戸期から人気だが、逸話の多くは後世の創作の疑い
野望説光秀自身が天下を取ろうとした古典的な説。ただし変後の準備不足と矛盾するとの指摘も
四国説信長の四国政策転換で、長宗我部氏との交渉役だった光秀が面目と立場を失った近年発見の石谷家文書などから有力視が進む
黒幕説(朝廷・足利義昭・イエズス会など)背後に別の主導者がいた決定的史料はなく、多くの研究者は懐疑的
秀吉・家康関与説変で最も得をした人物が関与していた状況証拠のみ。中国大返しの速さなどが根拠とされる

現在の研究では、単独の原因ではなく、四国政策での立場悪化を引き金に、将来への不安と一瞬の好機(信長がほぼ無防備で京都にいる)が重なったとする複合的な見方が主流になりつつあります。明智光秀という人物の生涯については、こちらの記事で詳しく解説しています。

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遺体が見つからない謎

本能寺の変の最大の謎が、信長の遺体が発見されなかったことです。光秀は主君殺しの正当性を示すためにも信長の首を必要としましたが、焼け跡を懸命に探させても見つからなかったと伝わります。これについても諸説があります。

  • 焼失説……火薬の貯蔵に引火するなどして、遺体が判別できないほど焼けた
  • 阿弥陀寺説……信長と親交のあった清玉上人が遺骨を密かに持ち出し、阿弥陀寺(京都)に葬った
  • 脱出説……実は生き延びていたとする伝承。史料的裏付けはなく伝説の域

首が晒されなかったことは、光秀の求心力を大きく損ない、山崎の戦いでの敗因の一つになったとも言われます。信長は死してなお、遺体の行方ひとつで歴史を動かしたのです。

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信長の墓はどこにある?

遺体が見つからなかったため、信長の「墓」は全国に20か所以上存在します。代表的なものを挙げると、遺骨を葬ったと伝える京都・阿弥陀寺、現在の本能寺にある信長公廟、そして豊臣秀吉が信長の一周忌に合わせて大徳寺に建てた総見院です。秀吉は葬儀の際、遺体の代わりに香木で作った信長の等身像を火葬にしたと伝わります。遺体なき葬儀を盛大に執り行うことで、秀吉は「信長の後継者」の立場を天下に示したのです。

墓が複数あることは一見奇妙ですが、日本では魂は分けて祀ることができる(分霊)という感覚があり、ゆかりの地それぞれで供養することに矛盾はありません。墓の数の多さは、それだけ多くの人々が信長の死を悼み、あるいはその名にあやかろうとした証でもあります。

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信長は「神」になろうとしていた?

信長の死を考えるうえで興味深いのが、宣教師ルイス・フロイスが残した記録です。フロイスによれば、晩年の信長は安土城下の摠見寺(そうけんじ)に自らを神体として拝ませ、自分の誕生日を参詣日にしたとされます。比叡山焼き討ちや一向一揆との徹底抗戦など、既存の宗教権威と戦い続けた信長が、最後は自らを神格化しようとした──という構図です。

この記録をどこまで信じるかには議論がありますが、後に豊臣秀吉が「豊国大明神」、徳川家康が「東照大権現」として実際に神に祀られたことを考えると、「天下人の神格化」の先駆けを信長に見ることもできます。人が神として祀られる日本独特の感覚は、御霊信仰や八百万の神の世界観と地続きです。

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筆者の考察、信長の死が変えたもの

本能寺の変は「日本史最大のミステリー」と呼ばれますが、筆者は、動機の謎解きと同じくらい「この死が何を変えたか」に注目すべきだと考えています。信長の死によって秀吉の天下統一が実現し、千利休の茶の湯が政治の中枢に入り、やがて家康の265年の泰平へとつながりました。もし信長が生きていれば、朝鮮出兵も鎖国もなかったかもしれない。そう考えると、京都の一夜の出来事が、その後の日本のかたちを丸ごと決めたことになります。

また、光秀の動機が今も確定しないのは、史料が少ないからだけではなく、「主君殺し」を説明する物語を各時代が求め続け、それぞれの時代の価値観で新しい説を生み出してきたからでもあります。怨恨説が好まれた江戸、野望説の近代、複合説の現代──本能寺の変の解釈史は、日本人の歴史観の変遷そのものなのです。

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まとめ

織田信長の死因は、1582年6月2日の本能寺の変における自害というのが定説です。ただし遺体は発見されず、明智光秀の動機も怨恨説・野望説・四国説・黒幕説など諸説あって確定していません。近年は四国政策を引き金とする複合的な見方が有力になりつつあります。信長の死は秀吉の天下、そして江戸の泰平へと続く歴史の分岐点であり、「神になろうとした男」の最期は、今も私たちの想像力をかき立て続けています。

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