大化の改新とは?645年は政変で改革ではない|年表と改新の詔、覚え方も解説

大化の改新とは?645年は政変で改革ではない|年表と改新の詔、覚え方も解説

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祓え給い、清め給え

「大化の改新は645年」と覚えた方は多いと思います。ただ、645年に起きたのは蘇我入鹿が殺された政変であって、改革そのものではありません。

現在の教科書は、この2つを分けて扱います。645年の政変が乙巳の変(いっしのへん)、その後に進んだ一連の改革が大化の改新です。そして改革は1年や2年で終わったものではなく、701年の大宝律令までおよそ半世紀かけて続いていきました。

さらに踏み込むと、改革の中身を伝える「改新の詔」の文章にも問題があります。発掘された木簡が、『日本書紀』の記述が後から書き換えられた可能性を示しているのです。このページでは年表で全体を追いながら、その話まで整理します。

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大化の改新とは

項目内容
時期645年の政変を起点に、7世紀後半を通じて進んだ改革です
中心人物中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足
目的豪族の連合から、天皇を中心とする中央集権国家への転換
手本隋と唐の律令制度
到達点701年の大宝律令で律令国家の体制が完成します
日本初のできごと元号(大化)の制定、天皇の譲位

乙巳の変と大化の改新の違い

混同されやすいので、先に切り分けておきます。

項目乙巳の変大化の改新
何を指すか645年の政変そのもの政変後に進んだ一連の政治改革
期間1日から数日のできごと7世紀後半のおよそ半世紀
内容蘇我入鹿の暗殺と蘇我氏の失脚公地公民、国郡制、戸籍、税制の整備

かつては645年の政変そのものを大化の改新と呼んでいました。現在は研究の進展を受けて区別されるようになり、教科書の記述も変わっています。学校で習った内容と今の説明が違って見えるのは、このためです。

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年表で見る大化の改新

年できごと意味
645乙巳の変。蘇我入鹿が暗殺され、蘇我蝦夷が自害します蘇我氏の権力が崩れます
645皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位。元号「大化」を建てます日本初の譲位と元号です
645難波長柄豊碕宮へ遷都します旧勢力の地盤を離れます
646改新の詔を発します改革の方針が示されます
647七色十三階の冠位を定めます家柄ではなく位で序列を決める方向です
663白村江の戦いで唐と新羅に敗れます外からの危機が改革を加速させます
667近江大津宮へ遷都します防衛を意識した内陸への移動です
668中大兄皇子が即位し、天智天皇となります23年ぶりの正式な即位です
670庚午年籍を作成します日本初の全国的な戸籍です
672壬申の乱。天武天皇が即位します皇権がさらに強化されます
689飛鳥浄御原令を施行します律令の体系が形になります
690庚寅年籍を作成します6年ごとの戸籍作成が始まります
701大宝律令が完成します律令国家の体制が整います
710平城京へ遷都し、奈良時代が始まります完成した制度のもとで都が営まれます

645年から701年まで、56年です。この長さを押さえておくと、大化の改新が1回のできごとではなく、何世代かけた国づくりだったことが分かります。

年号の覚え方

  • 645年の乙巳の変は「蒸し米(む・し・ご)」
  • 646年の改新の詔は、政変の翌年と覚えます
  • 663年の白村江の戦いは「無(6)論(6)散々(3)」
  • 701年の大宝律令は「なお(70)一(1)歩」
  • 710年の平城京遷都は「なんと(710)立派な平城京」

覚えるなら、645と701を両端として押さえるのがおすすめです。この2つの間が大化の改新だと考えれば、途中のできごとの位置が自然に定まります。

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中心人物

人物立場役割
中大兄皇子皇子、のちの天智天皇政変を主導し、皇太子として改革を進めました
中臣鎌足神事を担う中臣氏の出身中大兄皇子と結び、内臣として政権を支えます
蘇我入鹿当時の最有力者政変で殺され、蘇我氏の権勢が終わります
孝徳天皇皇極天皇の弟譲位を受けて即位し、改革の名義上の主体となります
僧旻と高向玄理隋や唐に留学した学者国博士として制度設計に関わりました

注目したいのは中臣鎌足の出身です。中臣氏は朝廷の祭祀を担ってきた一族で、祖神は祝詞の神である天児屋命とされます。つまり神事の家から出た人物が、律令という中国由来の制度を導入する側に立ったわけです。

鎌足は亡くなる前に藤原の姓を賜り、藤原氏の祖となります。神事を担う家が政治の中心へ移っていく流れは、ここから始まっています。

そして見落とされがちなのが最後の行です。僧旻と高向玄理は、遣隋使や遣唐使として大陸に渡り、長く学んで帰国した人物でした。改革の設計図は、留学経験者の知識から引かれています。

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何を目指したのか

蘇我氏を倒して目指されたのは、聖徳太子が理想として示した「天皇を中心とする国家」でした。

それまでの日本は、有力な豪族がそれぞれ土地と人民を私有し、その連合体として朝廷が成り立っていました。豪族が私有する人民を部曲(かきべ)、私有地を田荘(たどころ)と呼びます。この仕組みでは、天皇の命令が全国に直接届きません。

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改新の詔、4つの柱

646年の正月に発せられたとされるのが改新の詔です。4か条から成っています。

条内容何が変わるか
第1条部曲と田荘を廃止します土地と人民が国のものになります(公地公民)
第2条都を定め、国司や郡司、関所、駅馬などを置きます地方を中央から統治する仕組みができます
第3条戸籍と計帳を作り、田を分け与えます誰が何人いるかを国が把握します(班田収授)
第4条旧来の税を廃し、田を基準とした税に改めます税の基準が人から土地に移ります

公地公民制

豪族が持っていた土地と人民を国が回収し、すべてを天皇のもとに置く制度です。土地を失った豪族や皇族には、食封(じきふ)と呼ばれる代替の収入が与えられました。

国郡里制

全国を国、郡、里に分け、それぞれに国司、郡司、里長を置く制度です。国司は中央から派遣され、郡司は地方の有力者が任じられました。完全な実施は701年の大宝律令を待つことになります。

班田収授法

戸籍と計帳をもとに、6歳以上の公民へ口分田を支給する制度です。6年ごとに戸籍を作り直し、支給された田は本人が亡くなれば国に返されます。

租調庸

租は田からの米、調は布や特産物、庸は都での労役にあたる負担です。唐の制度をもとにしながら、日本の実情に合わせて作られました。

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改新の詔は、本当にそのまま書かれたのか

ここがこのページでいちばんお伝えしたい部分です。研究上、改新の詔の文面には後から手が入っているとされています。

根拠は1つの文字でした。『日本書紀』に載る改新の詔は、地方の区分を「郡(こおり)」と記しています。ところが1960年代以降、藤原宮の跡などから出土した木簡には、同じものが「評(こおり)」と書かれていました。

資料表記意味するところ
『日本書紀』の改新の詔郡大宝律令以降の用語です
出土した木簡評大宝律令より前に実際に使われていた表記です

つまり、646年の時点で「郡」という語は使われていなかったことになります。『日本書紀』が完成したのは720年で、701年の大宝律令より後です。編者は、自分たちの時代の用語に直して詔を記した。この議論は郡評論争と呼ばれ、改新の詔の文面がそのままの形で残っていないことを示しました。

では改新の詔そのものが存在しなかったのか、というと、そこまでは言えません。地面から出た木が、紙に書かれた歴史を訂正したというのが、この話の面白さです。文献は後から整えられますが、木簡は当時その場で書き捨てられたものなので、整える動機がありません。だから嘘をつけない。

筆者はこの一件を、歴史の読み方の見本だと思っています。『日本書紀』は、645年の政変を国家創設の瞬間として描きたかった。だから後の制度の完成形を、始まりの時点に遡らせて書いた。それは改竄というより、物語として整えたということでしょう。年表を自分で並べ直すと、整えられた形と実際の歩みのずれが見えてきます。

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白村江の敗戦が改革を加速させた

645年の時点では、改革はまだ理念と設計の段階でした。それを全国に徹底させる強い動機は、18年後の敗戦から生まれます。

663年の白村江の戦いで、倭国は唐と新羅の連合軍に完敗しました。ここで初めて、唐という巨大な帝国が現実に攻めてくるかもしれないという事実を、理屈ではなく体験として突きつけられます。

敗戦のあとに起きたことを並べると、危機感の強さが分かります。

  • 664年、対馬から大和にかけて防人と烽(とぶひ)を置きます
  • 北部九州に水城や大野城などの防衛施設を築きます
  • 667年、海から離れた近江大津宮へ都を移します
  • 670年、日本初の全国的戸籍である庚午年籍を作ります

戸籍を作るということは、誰がどこに何人いるかを国が全部把握するということです。平時なら豪族が抵抗します。負けた直後だから通った、という面は見ておくべきでしょう。

大化の改新を内政改革だけで理解すると、なぜ7世紀後半にこれほど急激に進んだのかが説明できません。内側の理念と外側の脅威がそろったときに、制度は一気に動きます。

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飛鳥時代から奈良時代へ

大化の改新は飛鳥時代のできごとです。奈良時代が始まるのは、平城京へ遷都した710年です。

645年の政変から65年あります。大化の改新と奈良時代が直接つながっているように感じるのは、改革の到達点が平城京の時代だったためです。701年に大宝律令が完成し、その制度を運用するための都として平城京が営まれました。

筆者の考察

大化の改新という呼び名について、私が面白いと思うのは、645年の政変それ自体には改革の中身がないという点です。

あの日に起きたのは、蘇我入鹿が宮中で討たれたという事件でした。制度が動きはじめたのは翌年の詔から、形になったのは701年の大宝律令で、56年かかっています。政変と改革を一続きの出来事として覚えると、この時間の幅が見えなくなります。

さらに、改新の詔が本当にそのまま書かれたのかという郡評論争があります。出土した木簡には詔にある「郡」ではなく「評」と書かれていて、日本書紀の文面が後の制度に合わせて整えられた可能性が指摘されました。

つまり、改革の出発点として語られる文書そのものが、改革の結果から逆算して書かれたかもしれないということです。歴史が後から筋を与えられる例として、これほど分かりやすいものは少ないと思います。

よくある質問

大化の改新は何年ですか

起点は645年です。ただし645年に起きたのは乙巳の変という政変で、改革の方針が示されたのは翌646年の改新の詔です。改革全体は701年の大宝律令まで続きます。

乙巳の変と大化の改新は何が違うのですか

乙巳の変は645年の政変そのもの、大化の改新はその後に進んだ一連の政治改革です。現在の教科書は2つを分けて記述しています。

中心人物は誰ですか

中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)です。制度設計には、大陸に留学した僧旻と高向玄理が国博士として関わりました。

大化の改新で何が変わったのですか

豪族が私有していた土地と人民が国のものになり、全国が国と郡に分けられ、戸籍にもとづいて田が配られ、税の基準が人から土地に変わりました。

元号の「大化」はどういう意味ですか

大きく化す、つまり大きな変革を意味します。日本で最初の元号で、政変の年に建てられました。

改新の詔は信用できるのですか

そのままの文面ではないとされています。詔が「郡」と記す語が、出土した木簡では「評」であり、後の用語に直して書かれたことが分かっています。ただし改革そのものがなかったとまでは考えられていません。

まとめ

645年に起きたのは政変であって、改革ではありませんでした。方針が示されたのが646年、制度が完成したのが701年。大化の改新は56年かけた国づくりです。

そしてその歩みを加速させたのは、663年の白村江での敗戦でした。理念だけでは動かなかった改革が、負けたことで一気に進んだ。防人を置き、城を築き、都を内陸に移し、全国の戸籍を作る。この順番を見ると、国家というものが何に追われて形になるのかが見えてきます。

最後にもう一度、木簡の話に戻ります。『日本書紀』は始まりの年を輝かせるように書きました。けれど地面から出てきた一枚の木が、その文面に手が入っていることを教えてくれました。歴史は書かれたものだけでは決まらない。この一件はそれを示す、気持ちのいい例だと思います。

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祓え給い、清め給え

「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」の語源・歴史・実践法をさらに深く知りたい方へ。

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「祓え」「清め」「神ながら」「幸え」それぞれの語根が持つ本当の意味、なぜ効果があるのか、深く唱えるための具体的な実践法まで書きました。

この記事を書いた人

日本神話と歴史
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