日吉大社とは?神猿と二つの本宮|比叡山と一体だったために焼き討ちにあった社

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1571年、織田信長が比叡山を焼きました。延暦寺の堂塔が焼き払われた出来事として知られています。
このとき、麓にあった神社も一緒に焼かれています。日吉大社です。
なぜ寺の焼き討ちで神社が焼けたのか。理由は単純です。この二つが、事実上ひとつのものとして扱われていたからです。日吉大社は、神と仏がもっとも深く混ざり合った場所でした。
この記事では、日吉大社の御祭神と二つの本宮、神の使いとされる猿、日吉造という独特の建築、そして比叡山との関係とその代償を見ていきます。
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日吉大社には、二つの本宮がある

滋賀県大津市、比叡山の東の麓に鎮座します。全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮です。
この社の特徴は、主祭神を祀る本宮が二つあることです。
| 観点 | 西本宮 | 東本宮 |
|---|---|---|
| 御祭神 | 大己貴神 | 大山咋神 |
| 読み | おおなむちのかみ | おおやまくいのかみ |
| どなたか | 大国主神と同じ神とされる | 比叡山の地主神 |
| この地との関係 | 大和から迎えられた | 古くからこの山におられる |
| 本殿 | 国宝 | 国宝 |
東本宮の大山咋神が、この山のもとの神です。比叡山そのものに宿る神として、古くから崇められてきました。

一方、西本宮の大己貴神は後から来た神です。天智天皇が近江の大津へ都を移したとき、大和の三輪山から迎えられたと伝えられます。
後から来た神のほうが、上位に置かれました
ここに、興味深い逆転があります。
本来この山の神は東本宮の大山咋神です。ところが長いあいだ、西本宮のほうが上位として扱われてきました。都から迎えられた神が、土地の神を追い越したことになります。
筆者は、ここに中央と地方の関係が映っていると考えます。都が近くに置かれた結果、都の神が格上とされた。土地の神は残りましたが、序列の上では下がりました。
参拝の際は、両方をお参りください。順番は問われませんが、この山にもともとおられた神がどちらであるかを知っておくと、見え方が変わります。
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日吉大社では猿が神の使い
日吉大社を訪れると、猿の像や彫刻が目につきます。神猿(まさる)と呼ばれます。
この読み方が、そのまま意味になっています。魔が去る。そして、勝る。どちらにも通じる音であることから、縁起のよい神の使いとされてきました。
| 神社 | 神の使い | 由来 |
|---|---|---|
| 日吉大社 | 猿 | 山に住む動物であり、魔が去るという音に通じます |
| 春日大社 | 鹿 | 武甕槌命が白鹿に乗って降り立ったとされます |
| 稲荷神社 | 狐 | 穀物を食べる鼠を退ける動物であることなどが挙げられます |
| 八幡宮 | 鳩 | 神の使いとして現れたという伝承があります |
| 天満宮 | 牛 | 菅原道真の生涯にまつわる伝承によります |
神の使いとされる動物は、その社の土地で実際に見られるものであることが多いようです。比叡山には猿がいます。奈良には鹿がいました。信仰は、目の前にいる生き物から始まっています。

境内では、御幣を持った猿の彫刻を探してみてください。楼門の軒下など、思わぬところに彫られています。
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日吉造という、ほかに例のない建築
西本宮と東本宮の本殿は、日吉造と呼ばれる様式です。聖帝造(しょうたいづくり)ともいいます。この二社にしか見られない形です。
もっとも特徴的なのは、背面の処理です。前面と側面には庇が回っているのに、背面では庇が途中で途切れています。ぐるりと一周していないのです。
| 特徴 | 内容 |
|---|---|
| 入口の向き | 平入 |
| 背面の庇 | 途中で途切れます。この社ならではの形です |
| 床下 | 下殿と呼ばれる空間があります |
| 見られる場所 | 日吉大社の西本宮と東本宮のみ |
| 指定 | 両本殿とも国宝 |
床下に空間があるのも、この様式の特徴です。下殿と呼ばれ、仏教の儀式に使われたと考えられています。
ここに、この社の性格が現れています。神社の本殿の床下で、仏事が行われていた。神と仏が同じ建物の上下に収まっていたわけです。
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比叡山の守り神として
延暦寺と一体になっていきました
平安時代のはじめ、最澄が比叡山に延暦寺を開きます。そのとき、山にもとからおられた神が、寺を守る神として位置づけられました。
これを山王信仰といいます。山王という呼び名は、天台宗の教えに由来するものです。中国の天台山を守る神にならって、比叡山の神をそう呼んだとされます。
やがて神は山王権現と呼ばれるようになります。権現とは、仏が仮の姿をとって現れたもの、という意味です。つまり日吉の神は、仏の別の姿として理解されました。

ここまで来ると、神と仏の境目はほとんどありません。神社と寺が別の組織であるという感覚も薄れていきました。日吉大社は、神仏習合がもっとも深く進んだ場所だといえます。
神輿を担いで、都へ押し寄せました
この一体化には、政治的な面もありました。
平安後期から、延暦寺の僧兵が朝廷へ訴えを起こすとき、日吉大社の神輿を担いで都へ向かうことがありました。神を前面に立てて要求を通す形です。
神輿を傷つければ神を傷つけることになります。武力で止めにくい。この方法は、たいへん有効でした。
信仰が政治の道具として使われた例です。ただ、こうした力の使い方が、のちの災いを招く一因にもなりました。
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1571年、焼き討ち
元亀2年の9月、織田信長が三万の兵をもって比叡山を攻めます。
焼かれたのは、延暦寺だけではありませんでした。麓の坂本の町家から、日吉の二十一社、そして山上の堂塔まで、ことごとく焼き払われたと記録されています。多くの僧や住民が命を落としました。
その後、逃れた神職の主導によって、10年ほどの空白を経て復興が始まります。現在の西本宮と東本宮の本殿は、この復興のなかで再建されたものです。
習合の代償という見方
ここが、筆者がこの社についてもっとも考えさせられる点です。
神と仏が深く結びつくことは、多くの場合よい結果をもたらしました。寺の学問が神社に入り、神社の祭りが寺を支える。互いの弱いところを補い合いました。
しかし、一体になるということは、運命も共有するということです。延暦寺が敵とみなされたとき、日吉大社も同じ扱いを受けました。神社としての独立性が薄れていたために、切り離してもらえなかったのです。
そして三百年後、明治の神仏分離では逆の立場に立ちます。今度は寺と切り離される側になり、山王権現という呼び名を捨てて日吉大社に戻りました。

混ざることで得たものと、失ったもの。日吉大社の歴史は、その両方を記録しています。神仏習合を語るとき、この社は避けて通れません。
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日吉大社参拝の見どころ

| 見どころ | 内容 |
|---|---|
| 西本宮と東本宮 | 両本殿が国宝。日吉造を実際に確かめられます |
| 山王鳥居 | 笠木の上に三角形が載る独特の鳥居です |
| 神猿 | 境内各所の彫刻や像。楼門の軒下も探してみてください |
| 宇佐宮と白山宮 | 上七社に数えられる社が境内に並びます |
| 山王祭 | 4月に行われる例祭。神輿が担がれます |
| 紅葉 | 境内一帯が知られた紅葉の名所です |
とくにご覧いただきたいのが山王鳥居です。ふつうの鳥居の上に、三角形の破風のような形が載っています。これは神仏習合を形にしたものと説明され、他所ではまず見られません。
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日吉大社についてよくある質問
日吉大社のご利益は何ですか
神猿が魔が去るという音に通じることから、厄除けと方除けで広く知られています。また大己貴神は国造りの神であり、縁結びや事業の成就を願う方もおられます。
東京の日枝神社とは関係がありますか
あります。赤坂の日枝神社は、日吉大社の神を分けて祀った社です。江戸城の鎮守として扱われ、徳川家の信仰を受けました。日枝という表記も、日吉と同じ神を指しています。
山王権現と日吉大社は同じですか
同じ社を指します。神仏習合のもとでは山王権現と呼ばれ、明治の神仏分離によって日吉大社という社名に戻りました。呼び名が時代によって変わったと理解してください。
二十一社とは何ですか
日吉大社を構成する社の総称です。上七社、中七社、下七社に分けられ、あわせて二十一社となります。境内にはこのうちのいくつかが並んでおり、順にお参りすることができます。
比叡山延暦寺とあわせて参拝できますか
できます。ケーブルカーを使えば麓の日吉大社から山上へ上がれます。かつて一体だった神社と寺を続けて訪ねることで、神仏習合という言葉が具体的に感じられると思います。
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まとめ
日吉大社は、全国3800社の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。東本宮に比叡山の地主神である大山咋神、西本宮に大和から迎えられた大己貴神を祀ります。後から来た神が上位に置かれてきたという逆転があります。
猿を神の使いとし、神猿と呼んで厄除けの象徴としました。本殿は日吉造というこの社だけの様式で、床下には仏事に使われたとされる空間があります。
延暦寺の守り神として山王権現と呼ばれ、神仏習合はここで最も深く進みました。しかし一体であったために、1571年の焼き討ちでは寺とともに焼かれています。混ざることで得たものと失ったものを、この社の歴史は同時に示しています。






