草薙剣とは?熱田神宮にある本体の形|江戸時代に盗み見た神官が残した記録

草薙剣とは?熱田神宮にある本体の形|江戸時代に盗み見た神官が残した記録

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祓え給い、清め給え

三種の神器のうち、形と寸法が具体的に伝わっているのは草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけです。

長さは約85センチ、刃先は菖蒲の葉に似て、全体が白っぽく錆はなかった。この記述は正式な調査の報告ではありません。1686年、熱田神宮の改修のときに神官が櫃を開けて盗み見た記録です。そして記録によれば、見た者たちはその後ことごとく咎めを受けました。

このページでは、ヤマタノオロチの尾から出た経緯、2つの名前の由来、熱田と宮中にある2振、盗み見の記録、持ち出すたびに起きた祟り、そして安徳天皇がヤマタノオロチの転生だったという中世の物語までをたどります。

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草薙剣とは

項目内容
読みくさなぎのつるぎ
別名天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。熱田神宮では草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)
出どころスサノオが退治したヤマタノオロチの尾の中
象徴するもの天皇の持つ武力
本体の所在愛知県名古屋市の熱田神宮
形代の所在皇居の御所にある「剣璽の間」
記録に残る形長さ約85センチ、両刃、白っぽい。江戸時代の盗み見による記録です

八咫鏡と同じく、草薙剣も本体と形代の2つがあります。八咫鏡の本体が伊勢の神宮にあるのに対し、草薙剣の本体は熱田神宮です。宮中にあるのはどちらも形代です。

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名前が2つある理由

名前出典と由来
都牟刈大刀(つむがりのたち)古事記が尾から出た直後に使う語。非常に鋭い大刀という意味です
草那藝之大刀(くさなぎのたち)古事記の表記。ヤマトタケルが草を薙いだ場面に由来します
草薙剣日本書紀の表記
天叢雲剣日本書紀が異伝として注に記す名。大蛇の上に常に雲が掛かっていたためといいます

日本書紀の注はこう書いています。元の名は天叢雲剣で、大蛇のいる上に常に雲気が掛かっていたためそう名づけたのだろう。日本武皇子に至って名を草薙剣に改めた、と。

つまり天叢雲剣が古い名、草薙剣が後の名という関係です。ただしこの由来は日本書紀の本文ではなく異伝の注なので、天叢雲剣という名のほうが後から整えられたと見る余地もあります。

なお島根県奥出雲町の船通山(鳥髪峯)の山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に記念碑祭が行われます。出雲や山陰は曇りの日が多く、雲の名を帯びた剣の伝承とよく合う土地です。

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「クサナギ」は蛇の剣だったのか

草を薙いだから草薙剣という説明は、日本書紀では異伝として扱われています。別の語源説があります。

クサは臭、ナギは蛇を指し、原義は「蛇の剣」だという説です。ナギが蛇を意味するという見方は、ウナギという語の成り立ちをめぐる議論とも通じます。

高崎正秀は『神剣考』で、クサは串や奇に通じて霊威があることを表し、ナギはナダで蛇を指すとして、この剣の名を「霊妙なる蛇の剣」と説きました。さらに、生贄にされかけたクシナダヒメも本来は霊蛇姫と表記したのではないか、クシナダヒメはヤマタノオロチの祭祀者でありながら出雲を支配する立場だったのではないか、とまで踏み込んでいます。

この剣は蛇の尾から出てきます。蛇の形をした蛇行剣という実物も各地の古墳から出土しています。草を薙いだという説明より、蛇の剣という原義のほうが素朴です。

垂仁天皇の神話では、出雲の女性が正体を「光る大蛇」とされる例もあります。出雲と蛇と剣は、もともと一つの束になっていたのかもしれません。

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十拳剣の刃が欠けた

スサノオはクシナダヒメを救うため、十拳剣でヤマタノオロチを斬り刻みました。古事記の原文は肥の河の流れが血に変わったと書きます。

中ほどの尾を斬ったとき、十拳剣の刃が欠けました。怪しいと思って刀の切先で刺し割ってみると、中に鋭い大刀があったという流れです。

ここで見落とされがちなのが、刃の欠けた十拳剣のその後です。この剣は大蛇之麁正(おろちのあらまさ)、または天羽々斬之剣(あめのはばきりのつるぎ)として石上神宮に祀られました。日本書紀の別の一書では、蛇韓鋤の剣として吉備の神部に祀られたとします。

スサノオは「これは不思議で霊妙な剣だ。どうして自分の物にできようか」と言って、高天原の天照大御神に献上します。欠けた自分の剣は手元に残し、出てきた剣は差し出しました。この献上が後の天孫降臨と国譲りの伏線になっているという見方もあります。

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ヤマトタケルと草を薙いだ場面

崇神天皇の時代に宮中を出た神剣は、八咫鏡とともに笠縫邑を経て、約60年かけて伊勢の神宮に落ち着きます。そして景行天皇の時代、東征へ向かうヤマトタケルに倭姫命から授けられます。

このとき倭姫命がかけた言葉は、文献によって違います。

出典渡したもの、かけた言葉
古事記草薙剣と火打石入りの袋。「もし急なことがあれば、この袋の口を解きなさい」
日本書紀、古語拾遺「慎んで怠ることなかれ」と訓戒します
平安時代の熱田神宮の記文天照大御神が倭姫命に神懸りし、「この剣は、そなたが前世でスサノオだったとき、出雲国で八岐大蛇の尾からとりだして私に献上した剣です」と伝えます

3番目は驚く内容です。ヤマトタケルの前世をスサノオとする伝承が、平安時代の熱田神宮に伝わっていました。剣を献上した者が、同じ剣を授かる側に生まれ直したという筋立てです。

その後、ヤマトタケルは相武国(古事記と古語拾遺)、または駿河国(日本書紀と熱田神宮の伝聞)で、敵の放った野火に囲まれます。古事記と古語拾遺では剣で草を刈り払い、向い火を点けて脱出しました。

日本書紀の注には、もう一つの話が載っています。天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これによって難を逃れたので草薙剣と名づけた、と。人が振ったのではなく剣が自分で動いたという話です。

静岡県には焼津、草薙という地名が残っています。

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剣を置いていったために死んだ

東征のあと、ヤマトタケルは尾張国で宮簀媛と結婚し、剣を彼女のもとに預けたまま伊吹山の神を討ちに向かいます。そして病を得て、大和へ帰る途中で亡くなります。

『古語拾遺』の書きぶりは明確です。剣を解いて家に置き、徒手で行って胆吹山に登り、毒気にあたって亡くなった。剣の加護を失ったから死んだ、と読ませる書き方になっています。

最期の歌は「剣の太刀、ああその太刀よ」です。あの剣が手元にあれば、という悔いが残っています。

『尾張国風土記』には、別れの場面が具体的に残っています。宮簀媛の屋敷にいたヤマトタケルは、夜に厠へ入るとき脇の桑の木に剣を掛け、そのまま忘れて部屋に戻りました。思い出して桑の木に戻ると、剣が神々しく光り輝いて手にすることができなかったといいます。そこで宮簀媛に「剣を私の形影として祀るように」と告げて出陣しました。

剣のほうが先に別れを決めていた、という話に読めます。『尾張国熱田太神宮縁起』では、ヤマトタケルは光る剣を手にとったものの、宮簀媛に「我が床の守りとせよ」と告げて出陣したことになっています。

ヤマトタケルの死後、宮簀媛は尾張氏とともにこの剣を祀り続けました。それが熱田神宮の起こりです。

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宮中の形代はなぜ作られたのか

崇神天皇のとき、形代が作られました。理由は「神器と同居するのは畏れ多い」というものでした。

『古語拾遺』によれば、天目一箇神とイシコリドメの子孫が神鏡ともう一振りの草薙剣を作り、天皇の護身用として宮中に残しました。そして形代の神威は本体と変わらなかったとされます。

ここを押さえておくと、のちの出来事が理解しやすくなります。壇ノ浦で沈んだのも、禁闕の変で奪われたのも、現在皇居にあるのも、すべて形代の系統です。熱田神宮の本体は、神話の記述どおりであれば一度も宮中に戻っていません。

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江戸時代に盗み見た神官が残した記録

熱田神宮は戦国期に神領を奪われて困窮し、江戸時代には荒廃します。松尾芭蕉は1684年の惨状を「かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる」と記しました。

1686年、徳川綱吉により社殿が造営されます。この改修のとき、神剣が入った櫃が古くなったため新しい櫃に移すことになり、熱田大宮司社家の神官4人から5人が神剣を盗み見たという記録が残りました。

その内容を伝えるのは、梅宮大社の神職で垂加神道の学者だった玉木正英(1671年から1736年)の『玉籤集』の裏書です。明治31年の『神器考証』や後藤守一の『三種の神器の考古学的検討』で紹介され、世に知られるようになりました。

段階記録されている内容
土用殿の内部雲霧がたちこめていました
1つ目長さ五尺の木製の櫃
2つ目石の櫃。木の櫃との間には赤土が詰められていました
3つ目石の櫃の中もさらに赤土。その真ん中にくり抜かれた楠の丸木がありました
4つ目丸木の中に黄金が敷かれ、その上に布に包まれた剣がありました
錠箱ごとに錠があり、大宮司の秘伝の鍵1本ですべてが開いたといいます

布をほどいて見た剣の姿は、こう書かれています。長さは2尺7寸から8寸ほど、およそ85センチ。刃先は菖蒲の葉に似ている。剣の中ほどは盛り上がっていて、元から6寸ほど、およそ18センチは節立って魚の脊骨のようである。全体的に白っぽく、錆はなかった。

この記述が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣になります。

一方で後藤守一は、終戦翌年の1946年に明治大学の夜間の講義で、別の伝承を紹介しました。神官が盗み見た剣は青黒かったという話です。それが事実なら、赤く錆びる鉄製ではなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性がある。そう述べたと、聴講していた考古学者の大塚初重が回想しています。

そして見た者たちの行方です。尾張藩士で国学者の天野信景は、随筆『塩尻』で、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたと記しました。別の逸話では、神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、ただ一人だけ難を免れた松岡正直という者が話を相伝したとされます。

明治時代の初めには、草薙剣を調査するため勅使が派遣されました。ところが最後の箱を開けようとしたところで、当時の太政大臣だった三条実美から中止命令が届き、調査は行われませんでした。

持ち出すたびに起きた祟り

年出来事結末
668年新羅の僧の道行が熱田神宮から草薙剣を盗み、新羅へ持ち帰ろうとします『尾張国熱田太神宮縁起』では、一度目は剣が自ら神宮に戻って失敗。二度目は船が難破して失敗し、剣は日本側に回収されました
677年剣は熱田へ戻る前に、現在の奈良県天理市に祀られます石上神宮の摂社である出雲建雄神社が創設されます。御神体は草薙剣の荒魂です
686年天武天皇が病に倒れます占いにより、宮中に剣を置いたまま熱田に戻さないための祟りと判明。剣は熱田へ戻されましたが、天皇は同年9月に崩御しました
1839年熱田神宮で盗難が起きます犯人はすぐに捕まり、この件を受けて神殿が改造されました

668年の盗難にちなむものが、熱田神宮に今も残っています。道行が剣を盗んで通ったとされる清雪門です。「不開門(あかずのもん)」と呼ばれ、何百年も開かれていないといいます。二度と剣が皇居へ移されないようにするためとも伝わります。

宮中の形代にも似た話があります。平安時代の陽成天皇が宮中の草薙剣を抜いたという伝説です。夜なのに御殿の中が「ひらひらとひらめきひかり」、恐怖した天皇が投げ出すと、剣は自ら鞘に戻ったとされます。

壇ノ浦で失われた形代

1185年の壇ノ浦の戦いで、二位の尼は8歳の安徳天皇と宝剣と勾玉を抱いて入水しました。勾玉は箱ごと浮いて回収され、鏡も確保されましたが、剣は見つかりませんでした。

『吾妻鏡』は文治元年四月十一日の条に、戦いの報告に続けてこう記します。内侍所と神璽は御座すが、宝剣は紛失。

朝廷と源氏は必死で探しました。源義経は宇佐神宮に願文を奉じ、朝廷も寺社への寄進や加持祈祷を行っています。それでも見つかりません。

時期剣の扱い
1185年から約20年間清涼殿の「昼の御座の剣」で代用します
承元4年土御門天皇から順徳天皇に代わるとき、伊勢の神宮から送られた剣を草薙剣としました。順徳天皇の『禁秘抄』の記述です
南北朝時代後醍醐天皇は三種の神器の偽造品を作らせたことがあり、北朝と南朝が互いに相手のものは偽物だと主張しました
1443年禁闕の変で勾玉とともに奪われますが、剣だけが翌日に清水寺の境内で発見されます。見つけた僧は褒美として美濃国加納郷を賜りました

この清水寺で見つかった剣が、現在の皇居の剣璽の間にある剣です。

なお『太平記』第25巻には、伊勢国から「光る剣」が献上された話もあります。天照大神が竜宮に神剣を返上するよう命じ、それによって海岸に打ち上げられたという剣です。日野資明や足利直義は本物の神剣だと主張しましたが、勧修寺経顕が反対し、剣は平野神社に預けられました。

安徳天皇はヤマタノオロチの転生だったという話

剣が失われたことは、人々に大きな衝撃を与えました。沈んだのは崇神天皇の時代に作られた形代ですが、スサノオがヤマタノオロチから取り出した本体そのものだと見る者も多かったのです。その衝撃から、中世に一連の物語が生まれます。

『平家物語』は陰陽博士の言葉としてこう記します。昔、出雲国の肥の河上でスサノオに斬り殺された大蛇は、霊剣を惜しむ気持ちが深く、八つの首と八つの尾にちなんで人王八十代ののち、八歳の帝となって霊剣を取り返し、海底に沈んでいかれたのだ。

八頭八尾と八十代と八歳。数の八が3つ重なっています。安徳天皇は第81代ですが、神功皇后と大友皇子を数えなければ第80代になります。

『源平盛衰記』はさらに踏み込みます。法華経をまとった海女が神剣を探して竜宮城へ行き、宝剣をくわえた大蛇と安徳帝に出会った。大蛇が語るところでは、宝剣はもともと竜宮の宝であり、スサノオに倒されたヤマタノオロチは自分の次男だった。ヤマタノオロチは伊吹山の大蛇になってヤマトタケルを倒したが、剣は取り戻せなかった。何度も人間に転生して奪還を試み、ついに安徳天皇に転生して取り戻せた。そういう筋です。

ヤマトタケルを殺した伊吹山の神が、日本書紀では大蛇とされていることを思い出すと、この話はよくできています。剣を置いていったヤマトタケルが蛇に殺され、1600年後に蛇が剣を取り返したことになります。神話と軍記物が一本につながります。

天台座主の慈円は『愚管抄』で別の見方を示しました。安徳天皇は厳島明神が化生した存在で竜王の娘だから、宝剣とともに海の底へ帰っていったのだろう。そしてもう一つ、武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴である宝剣は役目を終えて失われることを許されたのだ、と。

徳島県の剣山には、安徳天皇が天叢雲剣を納めたという伝説もあります。神剣の奉納によって太郎山から剣山に名が変わり、山頂の剣神社本宮でスサノオと安徳天皇を祀ったと伝わります。

1945年、剣はどこへ運ばれたか

熱田神宮は1945年3月12日と5月17日の空襲で多数の建物を焼失し、本殿も一部損傷しました。本土決戦が視野に入り、草薙剣の扱いが問題になります。

7月31日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一と宮内大臣の石渡荘太郎に三種の神器の避難を検討させます。疎開先の候補となったのは、岐阜県大野郡宮村の飛騨一宮水無神社でした。

8月22日、勅使として侍従の小出英経が勅封を携えて熱田神宮に赴き、唐櫃を開けます。出てきたのは、1881年5月25日に施された侍従長の山岡鉄舟の封でした。それを解くと、明治天皇の勅封がありました。

昭和天皇の侍従長だった入江相政の著書によれば、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意しました。実物は検分せず、短剣用の櫃に納めたといいます。剣は8月下旬から9月中旬まで水無神社に遷座しました。

そして最悪の事態になった場合、昭和天皇は伊勢の八咫鏡と熱田の草薙剣とともに長野県の松代大本営に移り、運命を共にする決意だったと伝わります。

その77年前、1868年9月27日にも剣をめぐる一場面がありました。東京へ向かう明治天皇が熱田神宮に宿泊したときのことです。熱田に祀られている本体と、天皇とともに動座してきた形代が、同じ場所に居合わせることになりました。

筆者の考察

三種の神器のうち、形の記録が残っているのは剣だけです。

鏡について伝わるのは「八頭花崎八葉形也」という数文字で、玉についてはほとんど何も残っていません。ところが剣には、長さ85センチ、刃先は菖蒲の葉、中ほどが盛り上がり、元の6寸は魚の脊骨のよう、白っぽく錆はない、という手触りのある記述があります。

そしてその記録は、正式な調査の成果ではありません。禁を破って覗いた者の証言です。1870年代の勅使による調査は、最後の箱の前で止められました。制度として確かめようとした試みは中止され、違反として覗いた記録だけが残りました。神器の形がわかっているのは、ルールを破った人がいたからです。

もう一つ気になるのは、剣だけがよく動くことです。668年に盗まれ、686年に祟りで返され、1185年に沈み、1945年に疎開しています。鏡は伊勢から動きません。玉は天皇の身辺から離れません。武力の象徴だからこそ、危機のたびに人が手を伸ばしたのかもしれません。

安徳天皇をヤマタノオロチの転生とする物語についても、筆者は単なる怪談とは思いません。あれは、敗れた側の神が1600年かけて自分の持ち物を取り返したという話です。勝った側が書いた記紀に対して、負けた側の視点から神話を読み替えています。神器を失った衝撃が、神話そのものを裏返して読む力を生んだことになります。

よくある質問

草薙剣はどこにありますか

本体は愛知県名古屋市の熱田神宮、形代は皇居の御所にある「剣璽の間」にあります。どちらも一般公開されたことはありません。

草薙剣と天叢雲剣は同じものですか

同じ剣の別名です。日本書紀の注によれば、元の名が天叢雲剣で、ヤマトタケルに至って草薙剣に改めたとされます。熱田神宮では草薙神剣と呼びます。

草薙剣の形はわかっているのですか

1686年に熱田神宮の神官が盗み見たという記録が『玉籤集』の裏書にあり、長さ約85センチ、刃先は菖蒲の葉に似て、全体が白っぽく錆はなかったとされます。これが正しければ両刃の白銅剣になります。別に「青黒かった」という伝承もあり、こちらなら青銅製の可能性が指摘されています。

壇ノ浦で沈んだのは本物ですか

沈んだのは崇神天皇の時代に作られた形代とされます。熱田神宮の本体は宮中に移っていません。ただし当時の人々の多くは、沈んだものを本体と受け取りました。

草薙剣を見ると祟られるのですか

記録では、1686年に盗み見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は病で亡くなったとされます。686年には天武天皇が病に倒れた原因が剣の祟りと占われました。いずれも伝承として伝わるものです。

熱田神宮の開かない門とは何ですか

清雪門です。668年に新羅の僧の道行が剣を盗んで通った門とされ、不開門と呼ばれて何百年も開かれていないと伝わります。二度と剣が皇居へ移されないようにするためとも言われます。

ヤマトタケルはなぜ死んだのですか

剣を宮簀媛のもとに置いたまま伊吹山の神を討ちに行き、病を得て亡くなりました。『古語拾遺』は、剣を解いて家に置き徒手で山に登ったと書いており、剣の加護を失ったことが死につながったと読ませる書き方をしています。

まとめ

草薙剣は、ヤマタノオロチの尾から出て、天照大御神に献上され、ニニギを経てヤマトタケルに渡り、尾張にとどまって熱田神宮の御神体になりました。宮中にあるのは崇神天皇のときに作られた形代の系統です。

その形代は壇ノ浦で沈み、約20年のあいだ別の剣で代用され、禁闕の変では奪われて清水寺で見つかりました。本体のほうは盗まれ、祟りを起こし、空襲を避けて山へ運ばれています。

そして形の記録は、禁を破って覗いた者の証言として残りました。三種の神器のなかで、剣がもっとも人に触られ、もっとも動き、もっとも物語を生んだ神器だと言えます。

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