八咫鏡とは?どこにあるのか|八咫から計算すると直径46センチになる鏡の謎

八咫鏡とは?どこにあるのか|八咫から計算すると直径46センチになる鏡の謎

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祓え給い、清め給え

八咫鏡(やたのかがみ)は、三種の神器のなかで唯一、本体と形代(かたしろ)の2つが別の場所にあるとされる神器です。

そして記録をたどると、宮中にあった形代のほうは1040年の火災で完全に破損しています。そのとき作り直しは議論されず、破片と金属の粒がそのまま神鏡として納められました。

このページでは、古事記と日本書紀が八咫鏡をどう書いているか、「八咫」という言葉から計算できる大きさ、それと一致する国宝の鏡、3度の火災の記録、そしてヘブライ語起源説の扱いまでを順に整理します。

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八咫鏡とは

項目内容
読みやたのかがみ
古事記の表記八尺鏡(やたかがみ)
別名真経津鏡(まふつのかがみ)。日本書紀に記されます
作った神天津麻羅(あまつまら)と伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)
初出の場面天岩戸隠れ。天照大御神を外へ誘い出すために作られます
本体の所在伊勢の神宮の内宮
形代の所在皇居の賢所(かしこどころ)
公開本体も形代も一般公開されたことはありません

三種の神器のうち、草薙剣は熱田神宮に本体があり宮中に形代があります。八尺瓊勾玉は本体が宮中にあるとされ、形代はありません。八咫鏡は伊勢に本体、宮中に形代という形です。3つで扱いが違うのは、それぞれがたどった事情が違うからです。

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古事記は「鉄で作った」と書いている

八咫鏡が初めて登場するのは、天照大御神が天の岩屋に隠れた場面です。八百万の神々が天の安河に集まり、鏡を作らせます。

ここで古事記の書き方に引っかかる点があります。川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた、と書かれているのです。鏡は銅と錫の合金である青銅で作ります。鉄で鏡を作った例は中国にありますが、日本の古代の鏡はほぼ青銅製です。

これは書き記した人が実物の製作現場を知らなかったということかもしれません。あるいは当時の「鉄」が、今より広く金属一般を指す言い方だったとも読めます。どちらにしても、八咫鏡の記述が実見にもとづいていない可能性を示す手がかりになります。

日本書紀では、本番の前に日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)を試しに鋳造したと伝えます。試作してから本番に臨むという話の運びです。鏡が天照大御神を象って作られたという記述もあり、鏡は太陽神の似姿として意識されていたことがわかります。

そして天孫降臨のとき、天照大御神はこの鏡をニニギノミコトに授け、この鏡を自分自身だと思って祀るように命じます。宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅と呼ばれる場面です。鏡が「神の姿を映す道具」から「神そのもの」に変わるのがここです。

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「八咫」はどれくらいの大きさか

「八咫」の解釈は大きく2つに分かれます。

説内容導かれる大きさ
形容説八十萬神、八尋大熊鰐、八咫烏などと同じく、ただ「大きい」「多い」を表す言い方具体的な数値は出ません
円周説咫(あた)を円周の単位と考え、直径1尺の円の円周を4咫とみなす直径2尺、約46センチ。円周は約147センチ

円周説の根拠は咫という単位そのものにあります。中国の字書に「咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也」とあり、ふつうの女性の手の長さ八寸を一咫とする、という意味です。戦国から後漢初期の尺では一寸がおよそ2.31センチですから、2.31センチ×8寸×8咫で約147センチになります。

円周147センチということは、直径は46センチあまりです。鏡としてはかなり大きく、抱えて持つような寸法になります。

「八咫は八尺にあたり約2.4メートル」という説明をよく見かけますが、これは咫(あた)と尺(しゃく)を混同したものです。咫と尺は別の単位で、咫のほうがずっと短いことを押さえておくと混乱しません。

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平原遺跡の鏡と数字が合う

ここで、計算した数字とほぼ一致する実物が出てきます。

項目内容
名称大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
出土地福岡県糸島市の平原遺跡
時期弥生時代後期から晩期
直径46.5センチ。国内最大級です
円周約146センチ
出土数4面とされ、のちに5面に修正されました
指定国宝
図柄文字や神獣はなく、図象のみです

咫から計算した円周147センチに対して、この鏡の円周は146センチです。差は1センチもありません。

考古学者の原田大六は、伊勢の神宮に伝わる八咫鏡の最初の姿が、この大型内行花文鏡と同じ形で同じ大きさだったのではないかと考えました。根拠はもう一つあります。『延喜式』伊勢大神宮式と『皇太神宮儀式帳』は、鏡を納める器である桶代(ひしろ)の内径を一尺六寸三分、およそ49センチと記しています。直径46.5センチの鏡を納めるのにちょうどよい寸法です。

さらに『御鎮座伝記』は八咫鏡の形を「八頭花崎八葉形也」と記しています。この図象を持つ考古遺物は、今のところ平原遺跡の大型内行花文鏡だけです。

ただし、この見方は学界の定説ではありません。福岡市の調査資料では、この鏡を国産の仿製鏡とみる原田の立場に対し、大陸製の漢鏡とみる見解も併記されています。重圏文を持つ同系の鏡は大陸でも確認されており、八葉座だけが大陸で未確認という整理です。

そしてもう一点、原田自身が重要な留保を付けています。御鎮座伝記を読むかぎり内宮の火災はおよそ3回あり、そのいずれかで鏡は焼失している。現存する桶代の大きさから推定すると、作り直された鏡はもう直径46.5センチではない。図象も、実物を見て写すことはできなかったはずだから変わっているだろう。原田はそう述べています。

つまり原田説は「今ある鏡が平原の鏡と同じ」という主張ではなく、「最初の鏡はそうだったのではないか」という推測です。ここを混ぜると話が変わってしまいます。

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八咫鏡は今どこにあるのか

場所扱い
伊勢の神宮の内宮天照大御神の御神体としての本体が奉安されています
皇居の賢所内宮の御神体をかたどった形代が置かれています
宗像大社の邊津宮古代の記録で八咫鏡を依代とする神社は、伊勢の神宮とここだけとされます

3番目の宗像大社はあまり知られていません。『筑前国風土記』は本文が残っていませんが、その逸文に宗像大社の邊津宮(へつみや)についての記述があり、八咫鏡を依代とする神社として伊勢の神宮と並べて挙げられています。

なお皇居の賢所は、本来は場所の名前です。その鏡を指して「賢所」と呼ぶ用法が生まれたため、場所のほうをあえて言うときには「けんしょ」と読むか、通称の「内侍所(ないしどころ)」と呼んで言い分けたと伝わります。のちには内侍所も鏡そのものを指す言葉になりました。

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宮中の神鏡は3度の火災で何になったのか

内侍所の神鏡が実際にどういうものなのかは、公卿たちも十分に把握していませんでした。それが火災のたびに明らかになっていきます。

年出来事結果
960年天徳4年の火災内侍所の神鏡が3枚あることが判明します。伊勢、紀伊国の日前、同じ国懸社の神鏡とされました
1005年寛弘2年の火災3枚のうち2枚が焼失。焼け残った1枚が伊勢の神鏡、つまり八咫鏡の形代とされます
1040年長暦4年の内裏の火災残った1枚も完全に破損します

1005年の火災では、作り直すかどうか、改鋳するかどうかが朝廷で議論されました。ところが1040年に完全に破損したときは、その議論が起きていません。結果として、神鏡の破片と金属の粒が神鏡として安置されることになりました。

筆者がもっとも気になるのはこの35年です。1005年には「作り直せるもの」として扱われていたものが、1040年には「作り直すという話すら出ないもの」に変わっています。

作り直せば、それは誰かが作った新しい鏡です。作り直さなければ、破片でも元の鏡です。朝廷が後者を選んだということは、神器の本質が形ではなく来歴にあると判断したことになります。箱と場所と扱いが引き継がれるかぎり、中身が粒になっても神器は神器である。その考え方がこのとき固まったように見えます。

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壇ノ浦と南北朝、神器が動いた時代

神器は宮中に静かに置かれていただけではありません。何度も持ち出され、沈み、奪われています。

年出来事鏡の行方
1185年壇ノ浦の戦い。平家の都落ちで神器も西へ移っていました安徳天皇とともに海中に沈み、源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したと伝わります
1336年後醍醐天皇が光明天皇に三種の神器を譲ります南朝は、これは偽物で本物は南朝にあると主張しました
1351年ごろ正平一統南朝が北朝の神器を接収します
1392年明徳3年、南朝から神器が還りますそれまでの北朝は「内侍所御辛櫃」を神鏡の代わりとしていました
1443年嘉吉3年の禁闕の変。後南朝勢力が宮中を襲撃します宝剣と神璽は奪われましたが、神鏡だけは難を逃れ、翌日に近衛殿へ移されました

1392年までの約56年間、北朝の天皇は神鏡の代わりに空の櫃を拝んでいたことになります。それでも即位は成立しました。器が本体の代わりになるという考え方は、1040年の破片の処理と地続きです。

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見た人の記録

記録として残っているものはごくわずかです。

『神道五部書』や『類聚神祗本源』には八咫鏡の見分記録とされる文があり、「八頭花崎八葉形也」、そして「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」と記されています。八葉の中に方形と円形が五位に配されている、それが天照大神の御霊の鏡の座である、という内容です。

また明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっています。

これ以外はほぼ空白です。御神体は見ることで穢れが生じるという考え方があり、鏡は布で覆われて箱に納められます。皇位継承の「剣璽等承継の儀」でも鏡は登場せず、宮中に置かれたままです。

ヘブライ語起源説をどう見るか

八咫鏡の「ヤタ」という音が日本語らしくないとして、ヘブライ語に由来するという説が広く紹介されています。日ユ同祖論の文脈で、ヤハウェやヤタという語との音の近さが取り上げられます。伊勢の神宮の鏡の裏にヘブライ文字が刻まれていたという話も、インターネット上で繰り返し見かけます。

この話は2点に分けて考えると整理できます。

論点整理
「八咫」の語源八は多さ、咫は長さの単位です。古事記は「八尺鏡」とも書いており、大和言葉として説明がつきます
鏡の裏の文字御神体は非公開で、裏面を見た報告の一次資料が確認できません。出所をたどれない話として扱うのが妥当です

一方で、鏡そのものが大陸と半島を経て日本に入った器物であることは事実です。平原遺跡の鏡をめぐって国産か大陸製かの議論があるとおり、鏡の技術は外から来ました。外来の技術で作られた器物が、やがて国の中心の神器になったという流れは、それ自体がおもしろい筋道です。語源をヘブライ語に求めなくても、八咫鏡は十分に国際的な由来を持っています。

筆者の考察

八咫鏡の話を追っていて引っかかるのは、神武東征に三種の神器がまったく出てこないという点です。

天照大御神がニニギに授け、この鏡を自分だと思って祀れと命じた場面です。それほど重い神器であれば、子孫が大和へ向かう場面でも触れられてよいはずです。ところが東征の記述には、鏡も剣も玉も登場しません。

これは三種の神器という組み合わせが、東征の物語より後に整えられた可能性を示していると筆者は考えます。鏡は鏡として、剣は剣として、それぞれ別の由来を持つ器物が祀られていたのではないか。それが皇位の正統性を示す3点セットとしてまとめられたのは、記紀の編纂に近い段階だったのかもしれません。

そう考えると、1040年に破片を納めた判断も違って見えてきます。あれは信仰が形を軽んじたのではなく、もともと神器が「物」ではなく「位置」として設計されていたからではないでしょうか。誰が持っているか、どこに置かれているか、どう引き継がれたか。その関係のほうが本体だったとすれば、粒になっても続いていくのは当然です。

そしてその設計は、結果として強いものでした。火災でも、水没でも、南北朝の分裂でも、継承は途切れていません。見えないこと、確かめられないことが、かえって途切れなさを支えてきたように見えます。

よくある質問

八咫鏡の大きさはどれくらいですか

「八咫」をただ大きいという形容とみる説と、咫を円周の単位として直径約46センチ、円周約147センチと計算する説があります。確定していません。なお「八尺で約2.4メートル」という説明は、咫と尺を混同したものです。

八咫鏡は今どこにありますか

本体は伊勢の神宮の内宮、形代は皇居の賢所にあるとされます。どちらも一般公開されたことはありません。

八咫鏡を見た人はいますか

記録に残るのは、明治初年に明治天皇が天覧したという一件です。中世の文献には形についての見分記録があり、「八頭花崎八葉形也」と記されています。それ以外の記録はほとんど残っていません。

八咫鏡は失われたことがあるのですか

伊勢の本体は火災で焼失し、作り直されたという見方があります。宮中の形代は960年、1005年、1040年の火災で損なわれ、最後は破片と金属の粒が納められました。1185年の壇ノ浦では海に沈み、回収されたと伝わります。

八咫鏡の別名は何ですか

日本書紀は真経津鏡(まふつのかがみ)という別名を記しています。単に神鏡や宝鏡と呼ばれることもありますが、これらは普通名詞で、八咫鏡だけを指すとは限りません。

伊勢以外に八咫鏡を祀る神社はありますか

『筑前国風土記』の逸文によると、古代の記録で八咫鏡を依代とする神社は、伊勢の神宮と宗像大社の邊津宮だけとされています。

平原遺跡の鏡が八咫鏡なのですか

原田大六は、最初の八咫鏡が平原遺跡の大型内行花文鏡と同じ形で同じ大きさだったのではないかと考えました。桶代の内径が約49センチで寸法が合うこと、『御鎮座伝記』の図象と一致することが根拠です。ただし学界の定説ではなく、原田自身も現在の鏡は作り直されて別物になっていると述べています。

まとめ

八咫鏡は伊勢に本体、宮中に形代があるとされる神器です。「八咫」を円周の単位として計算すると直径46センチあまりになり、福岡県糸島市の平原遺跡から出土した国宝の鏡とほぼ一致します。

一方で宮中の形代は、記録のうえでは3度の火災で損なわれ、最後には破片と金属の粒が納められました。作り直すという議論は起きませんでした。

大きさの計算が合うことと、その鏡が今も残っていることは別の話です。この2つを分けて読むと、八咫鏡という神器が何を引き継いできたのかが見えてきます。引き継がれてきたのは金属の円盤ではなく、それを納める箱と場所と作法のほうでした。

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